地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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神指城

 小さい頃、ここに何度か遊びがてら探検に来ている。その歴史的な背景は分からなかったが、「造りかけの幻の城」という秘密めいたイメージはあった。ただそれだけだった。
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 今回訪ねてみて、当時は城の本丸と思っていた所が、二の丸の北東の角の土塁であることが分かった。しかし、ここに案内板が整備されて、この土塁の西側に駐車場も整備されていた。遺跡としてしっかり残っているのはこの地点らしい。


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 本丸の石垣の石もここに展示されて、この城の展示室の役割もになっているようだ。ここの石垣の石は、廃城になった後、鶴ヶ城の石垣の修理に使用されたり、後年は良さそうな石が持ち運ばれたりしていたという事情があって、わざわざここに展示する運びになったと推察する。
 後ろには、高瀬の大ケヤキが見える。


説明
 慶長5年、時の会津藩主上杉景勝が高瀬村に新城の築営を行ったが完成しないまま現在に至る。
 この巨石はここより南方300mの本丸に慶山村「現東山村」の山中から運んだといわれている石垣の基礎石で昭和58年にここに移し保存するものである。
 高瀬共有財産区


 「天地人」の物語で、先週越後を離れる予告があった。
 いよいよ、蒲生氏が宇都宮へ移され、代わって越後から上杉景勝が120万石で会津に入ることになるようだ。そのこともあって、今回この神指城跡に立ち寄ってみた。
 慶長3年(1598)3月、上杉景勝は、石田三成とともに若松に入り、直江兼続は米沢に入る。8月には、豊臣秀吉が死去することになるということだ。
 景勝は、先に整理した向羽黒山城の改修を2年かけて終了し、慶長5年(1600)神指城の築城を命じたようだ。豊臣家では、中央の大坂城、西の広島城、東の神指城の計画があったとみられている。
 天地人を意識したこの城の案内板が建っている。
 神指城跡
 神指城は、蒲生秀行が宇都宮に移封となった後、慶長3年(1598)に会津の領主となった上杉景勝が、重臣の直江兼続に命じて築城させた城です。
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 慶長5年(1600)3月から工事が開始され、同年6月には一応形が整ったといわれています。縄張りは、本丸と二の丸から成る輪郭式の平城で、それぞれ濠と土塁が取り囲む構造となっています。このような形の縄張りを持つ城は、身近な所では山形県の米沢城が代表的です。
 面積は、本丸だけでも約56000㎡、二の丸を含む全域では約5000000㎡もあり、若松城を遥かにしのぐ規模の壮大な城でした。この土地は二の丸土塁の北東隅にあたります。
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 この地が城郭建設地として選ばれたのは、若松城が会津盆地の東南隅に位置することから城や城下町の拡張が難しかったのに対し、盆地の中心で平坦なため、築城地としててきしていたためと考えられます。
 しかし、築城半ばであった神指城も、徳川家康による会津征伐の情報を得るなどの情勢の変化により工事は中断されます。そして、関ヶ原の合戦後の慶長6年(1601)には上杉家は米沢30万石に転封となり、神指城は完成をみないまま廃城となりました。
 このように、築城時期と廃城時期が特定できる城郭として貴重な存在となっています。

 天地人会津支援協議会
 (会津若松市観光課39-1251)

by shingen1948 | 2009-08-18 06:17 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)