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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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勝常寺

 会津へ出かける用事があったので、その途中に勝常寺に立ち寄った。早朝の限られた時間ではあったが、雰囲気の中に浸ることができた。
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 おぼろげながら会津仏教についての見方が分かりかけてきたのは、最近だ。これらは、「会津から(信仰と文化)」というカテゴリーの中の一つとして整理している
 そのスタートは、県立図書館で偶然「会津恵日寺」伊藤泰雄編を見つけ、「伊藤泰雄編「会津恵日寺」を見つけた」「山岳宗教と恵日寺、そして廃寺②」として整理したことだった。その「宗教観を追い求める姿勢」と「新しい宗教を、民衆への入り込ませる姿勢」を、「勝常寺と徳一」をもとに、「仏教の民衆化を探る」「恵日寺を中心とした仏教文化を思う」「徳一の優位性についての読み取り(勝常寺と徳一)」として整理した。


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 これは、勝常寺の正門から南に抜けて、やや東に進んで人家をさけて磐梯山の方向をみているが、会津盆地の広がりが感じられる。
 徳一は、人里から離れ、自然豊かで仏道修行に適した土地に、修行に励むために慧日寺を建立した。そして、会津の地に法相宗を広める大衆教化のため、交通の利便性があり人が集まりやすい土地にこの勝常寺を建立したと考えられているようだ。
 
 この地は、会津の民衆へ仏教強化を実践する場であり、その仏教的権威を示すため薬師如来像をはじめとする諸仏像を安置したとのことだ。
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 現在のこの薬師堂(講堂)は室町時代初期(1398年ごろ)に蘆名氏家臣・富田祐持によって再建されたものとのことで、国の重要文化財に指定されている。
 桁行5間、梁間5間(柱間の数)、寄棟造。
 屋根はもとは茅葺きであったが、昭和39年に銅板葺となったとのことだ。
 この薬師堂の建つ位置は、創建当初の講堂の位置らしい。建物の礎石には火災の跡があるので、再建前の堂は火災で焼失したものと思われている。
 内部には国宝の木造薬師如来及び両脇侍像が安置されているとのことだが、今回は拝観できなかった。


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 こちらの奥が、現在の本坊のようだ。


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 正面には、各種記念の石碑が立ち並ぶ。このあたりが金堂かななどと勝手に想像している。


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 その門前の道が、南に伸びている。そのどこかの位置の両脇に塔が建っていて、そこから進んだどこかの位置に南門があったということのようだ。


 勝常寺の概観
 勝常寺は807年、伝教大師(最澄)の論敵として有名な法相宗の硯学徳一上人によって開かれた東北を代表する古刹です。創建当初の寺院名は詳らかではないが中世以後勝常寺としている。創立された当時は七堂伽藍が備わり、多くの附属屋、十二の坊舎、百余ヵ寺の子院を有する一大寺院であったと伝えられています。
 現在残されている建物は元講堂(薬師堂)、本坊(客殿)、庫裏、中門等で仏像も30余躯あります。(薬師堂以外は近世以降の建物)
 このうち、3躯は国宝の指定を受け、更には薬師堂と9躯は国重要文化財の指定を受けている。
 講堂は応永5年(1398)の再建で会津中央薬師堂と呼ばれている。
 仏像は、いずれも今から約1170余年前、勝常寺が創建された当時から伝えられたもので、これだけ多くの平安初期の仏像が一か所に保存されているのは我が国では珍しいことである。
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 創建時の主要建造物の位置は伝承、焼け土、道路等により大体は想像できる。講堂を起点として南に向かって大体等間隔に金堂・中門・南大門の位置が一直線上に立ち並んでいたことが想像できるし、三重の塔跡は中門のそと東側にある講堂の近くにあったはずの経蔵・鐘楼・僧坊等の位置は明確でない。
 本坊は現本坊の区画内に南向きに建てられていたらしい。中門の前の道を通り本坊へ達したと考えられる。東大寺に似た伽藍配置であったらしい。

by shingen1948 | 2009-08-15 06:03 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)