阿武の松原碑
2009年 08月 13日
文学には疎いのでよく分からなかったが、この松原が日本の三松原の一つとして、次のように金葉集(1127)にも詠まれているという。
みちのくの思いしのぶにありながらこころにかかるあぶの松原 太宰太弐長実(藤原実長)
※ 「みちのくの信夫にいるあなたへの思いを耐え忍んでおる私ですが、あなたと会う約束をしたあの阿武の松原が気になってしかたありません」
当時の三松原とは、三保の松原(静岡県清水市三保海岸)と、生きの松原(福岡県今津湾)、そして、この阿武の松原とのことだ。
千年前の教養ある都人の心を捕らえた場所である事を知らせるため、その歌碑を昭和52年に建立したという。この歌碑は、昭和56年2月18日には伊達町の文化財に指定されている。
今はこの辺りが松原だったという面影はないが、昭和29年まで、樹齢1000年の最後の一本の古松が残っていたとも聞く。
実はこの松原碑も、初めから是非見つけたいというこだわりはなかった。この街道沿いが、松原だったという情報で十分だった。ところが、この石碑を何度探してもみつからないということで、みつけることにこだわってしまったものだ。
なかなか見つからなかったのは、街道沿いというイメージで探したからだったようだ。写真の角を左に曲がり、その左手にさりげなく立っていた。街道からは影になっていて見つけにくかったようだ。
自分の力だけではみつけられず、御近所で教えていただいた。
松尾芭蕉氏御一行は、この街道の愛宕山を挟んだ南側で、月の輪の渡しを渡って、瀬上宿をめざしてしまう。御一行が、教養として持ち合わせていたことは考えられるが、この松原はこの時代には影が薄くなっていたとも聞く。