地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

桑折一里塚

 長岡あたりを確かめ始めたきっかけは、「信達大一揆」の義民齋藤彦内の確認だった。
 最初に確かめたのが、義民齋藤彦内の墓のある福源寺を訪ねたことだ。それを中心に散歩を計画すれば、長岡辺りを確かめら、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことになるはずだ。ここに寛延百姓一揆の首謀者三人がその責を負って処刑され、三義民の顕彰碑があるということだ。

 ところが、福源寺を訪ねて整理したのが6月初めで、それから先に進んでいない。
 今回は、瀬上宿から長岡辺りを確かめた後、奥州街道を産ケ沢川あたりまで進むことをめざしてみた。
 実際はスムーズに進んだのだが、その途中で一里塚の標識をみつけたので、まずそれを整理しておく。
a0087378_5383139.jpg
 一里塚の案内は桑折町となっていた。先に越した川が町堺だったようだ。
 家に戻って確認すると、その越した川が潤野川という川で、ここを少し超えたあたりから桑折町になっている。地名が、境・堀切端というのが見える。この辺りの窯跡が気になっている所だが、奥州街道のこの境あたりの西側が、川沿いに地名が瀬戸になっているのが興味をそそる。



 赤坂を越した辺りに一里壇の地名がみえている。この一里塚とかかわっているのだろうか。
a0087378_5481922.jpg
 この社があるところが一里塚の痕跡なのだろう。


a0087378_5511876.jpg
 向かい側にはその痕跡はみえないが、両側に塚があったことをイメージする。

 奥州街道沿いで、一里塚の痕跡を見つけたのは、信夫橋あたり。そのことについて、「信夫橋6」で整理している。そこにあった一塚跡の案内は、ここでも生きる。

 一塚跡(旧奥州街道)
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸日本橋を起点とし、一里(約4㎞)ごとに道の両側に塚を築き街道の距離を示した。


 この信夫橋付近の一里塚の次を地図で探すと、瀬上宿に入る手前に「一里塚」の地名が見える。このあたりだろうか。そして、その次の一里塚が、この桑折の一里塚ということなのだろう。

 産ケ沢の川が見えてきた。
by shingen1948 | 2009-08-07 06:03 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)