地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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修験極楽院三島屋敷~伊達家極楽院旧跡

 伊達市観光ポータルサイトでは、ここを次のように説明する。
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 極楽院は、中世には紀州熊野参詣の先達者でありました。
 文亀3年(1503年)の熊野勝達坊旦那売券によれば、極楽院は信夫郡北郷の信者を率いて参詣しています。天文3年(1534年)伊達稙宗の息子清三郎が極楽院に入嗣して以来、伊達家の庇護を受けました。江戸期には、極楽院は伊達郡西根郷の修験の触頭でした。明治初期に廃寺となりましたが、建物は近世末の形態を留め、護摩壇に使用した部屋も残っています。杉板戸には保原の絵師熊坂適山の絵が残っています。極楽院歴代の墓碑は金秀寺に移されています。市指定文化財。(昭56.2.18指定)
 注意:個人住宅につき、観光にはご注意ください。

 興味の一つは、この院の宗教的な側面であり、もう一つが伊達氏とのつながりであり、更には三島屋敷・三島神社とのかかわりということだろうか。


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 宗教的な側面では、修験ということだ。これは、我が国固有の山岳信仰と平安期の密教の呪術とが習合して生まれた宗派らしい。その修行者は山伏と呼ばれていたという。
 よく分からなくなるのが、これまた明治5年(1872)の神仏分離令だ。修験道もこれで廃止となり、翌6年には、この極楽院も廃院となったということだ。
 福島の虚無僧寺と同じように、この明治維新の意気込みで日本人の心の持ちようの一つが消されたという経緯だ。

 伊達氏とのかかわりでは、案内では、天文3年(1534年)伊達稙宗の息子清三郎が極楽院に入嗣して以来、伊達家の庇護を受けたと記す。
 この後について、延宝年間(1673~80)仙台藩主の伊達綱村が、宗栄4世の孫極楽院直光を一族として還俗させて家臣に取り立てたことが、三島屋敷の案内板にはある。その時、姓を岡村として召出の班に挙げられたという。
 極楽院は弟の良雄が継いだとある。それ以来院主は、その末裔が継いできたという。

 この「姓を岡村として」という部分だが、このあたりの常識として、「むら」の感覚的な単位を確認する必要がある。地元の方にはすっと入っていくが、散歩人としてはそれがないので案内されていることがイメージしにくい。
 
 このあたりの「むら」単位は、古くは長倉村と岡村があり、それが合併して長岡村になったということだ。更に、「伏黒村」が合併して、一時「伏黒村」となり、それから伊達となのるという経緯と、その他の「むら」が合併して、伊達町が構成されていたということのようだ。
 先に訪ねた「岡陣屋」の岡も、岡村の岡だ。長倉館は、長倉村にある館だ。

 なお、ここが個人住宅という件に関しては、このお宅が元福島町長の祖父からここを譲り受けて居宅になっているということらしい。
by shingen1948 | 2009-08-04 05:39 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)