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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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長倉城②

 この長倉城については、先に西山城本丸を訪ねた時にも、「山形宮城福島の城郭」をもとにして整理している。
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 伊達市歴史ガイドブックでは、応永7年(1400)に、伊達大善大夫政宗(9代の伊達政宗)が、稲村公方足利満貞の下知に従わなかったので関東官領足利満兼に討たせようとしたことにふれたことと重なる。ただ、9代の政宗と長倉入道のその後を、「桑折赤舘に移り反抗したが及ばず、政宗は会津方面へ逃れた」と説明するが、「山形宮城福島の城郭」によると、9代の政宗と長倉入道は一度追い返しているという。
 そして、応永9年には、勅使河原兼貞が28万騎で赤舘・長倉舘を攻めるが、これも追い返し、兼貞は生け捕りにされたと「余目氏旧記」にあるということだった。
 それから、ガイドブックに説明されているように、この年に近国の軍勢を動員した上杉氏に赤館攻撃を加えられて落城させられ、この時に政宗は会津に走ったということだ。

 ちょっとこだわってみたのは、この時代の背景が分かりにくいので、これを機会に少し頭の中を整理したかったからだ。
 稲村公方を確認しておく。
 東国は、室町幕府と鎌倉府が和解し、応永6年年(1399)に陸奥国、出羽国が鎌倉府の管轄となる。その3代鎌倉公方満兼の命によって満貞は、岩瀬郡稲村(須賀川市)に下向して稲村御所(稲村公方)と呼ばれるようになっているようだ。この時、満直が陸奥国安積郡篠川に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれている。稲村公方足利満貞は、3代鎌倉公方満兼の弟という人間関係らしい。
 その主たる任務目的は、国人勢力である二階堂氏・伊東氏・白川氏などと連携して、伊達氏など反鎌倉府勢力に対抗することだったようなので、対立はごく自然の成り行きだ。
 この後、鎌倉公方が持氏に代替わりすると満直と持氏の関係が悪化し、満直は幕府と結びつが、満貞は応永31年(1424)鎌倉に退去する。そして、永享10年(1438)の永享の乱では持氏に与力し、鎌倉で自害するという運命をたどる。

 上杉氏も登場するが、関東管領という鎌倉公方の補佐役の立場で、収拾にやってきたのだろうか。「近国の軍勢の動員」は、二階堂氏・伊東氏・白川氏だろうか。この後の鎌倉公方と幕府との対立の時代も、上杉氏は幕府方だったはずだ。

 伊達家の天文の乱における長倉氏の動きは、長倉信濃守、同伊賀守ら一族の多くは稙宗派に与して失脚してしまうが、長倉彦兵衛が晴宗派についていて、長倉氏は所領の安堵を受けていると聞く。
 したがって、この城の廃城は天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置による伊達氏の伊達郡没収あたりと勝手に思うことにする。
 分かりにくい時代背景の中で、なかなか興味を持ちにくい地味な史跡で、駅前の案内板には「伊達小学校」とプロットされているだけだ。
 せめて「館主稲荷神社」のプロットぐらいあると、散歩人の手助けになると思うが、余計な御世話だとも思う。
by shingen1948 | 2009-08-03 05:42 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)