地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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長倉城

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 これは、伊達小学校の校庭の南端のラインを西側から眺めているが、「伊達市歴史ガイドブック」によると、伊達小学校の敷地と東側の一帯が長倉館跡とみられているという。長倉館は、長倉要害ともいうそうだ。
明治時代の絵図には堀跡・土塁跡などが見て取れるという。


 応永9年(1402)9代伊達政宗とともに長倉氏が関東公方に抵抗してここに一時立て籠った。後かれらは桑折赤舘に移り反抗したが及ばず、政宗は会津方面へ逃れたという。関東公方が政宗に領地返上を迫った時、政宗は北条荘を進呈しようとして断られたというから、このころ北条荘(山形県南陽市域)は伊達氏の領地であったことが知られる。この後、北条荘は懸田氏の所領となる。(伊達市歴史ガイドブック



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 近くに、館主稲荷神社があるが、当時の土塁であるという。


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 神社に登ってみると、確かにそういった雰囲気を感じる。この北側が空き地になっているようなので、昔の電車通りからその雰囲気が味わえるかもしれない。


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 回り込んでみると、確かにここに土塁があった雰囲気が味わえる。


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 その神社を北東の角にして、伊達小学校と東側の遺跡を分断するような形で道路が走る。その道路から神社方面に眺めると、土塁とその切れ目のようなものが頭に浮かぶ。各種資料では、遺跡は跡かたもないということなので、思い込みだとは思うが、案外神社前の道路も、この道路もその土塁に沿った形で走っているのではないかなと勝手に想像する。マホロンのデータベースが示す広範な範囲や、眺めてみての勝手な思い込みからの推測だが、複数の郭を持つイメージが浮かぶ。
by shingen1948 | 2009-08-02 09:22 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)