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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の虚無僧寺②~虚無僧寺開祖の記念碑

 「道ばたの文化財」によると、虚無僧寺開祖の記念碑が、春日町の慈恩寺にあり、この寺に歴代上座(住職)24名の御位牌が残されているという。
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 この寺は、門前にある案内によると、福寿山慈恩寺といい、臨済宗妙心寺派らしい。虚無僧寺「小菊山 連芳軒」との関係は、その本寺という位置づけのようだ。


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 虚無僧寺開祖の記念碑は寺の奥にあり、その脇に案内板が建つ。
 石碑には、「慶長四亥歳八月十五日当山開基 古山一風上座」と刻まれている。

 碑文によると、虚無僧寺の開基は徳川幕府成立以前となる。
 慶長4年は、1599で、関ヶ原の戦いの前年ということだ。福島では、上杉の本荘氏の時代で、天地人の時として整理している時代ということになる。

 碑の脇の案内板では、以下のように説明する。
 このお墓は江戸時代虚無僧寺連芳軒開基古山一風上座のお墓であります。
 連芳軒は元福島市大町の現電々ビルの所に敷地617坪、東西32間南北19間の壮大にして奥州随一の著名な虚無僧寺がありました。それが不運にも明治14年4月の福島大火(甚兵火事)により1800戸と共に全焼してしまいました。然しながら御本尊達磨大師並びに当時24名の先人の御位牌は燃え盛る火の中、かろうじて搬出しました。これらの遺品は現在慈恩寺本堂に安置され管理されています。現在は尺八愛好家により連芳軒神保会を創立いたし、福島県連芳軒、宮城布袋軒、山形臥龍軒の三軒集いて謝恩並びに追善供養のため尺八本曲献奏を行っています。(以下略)

 この説明によると、この寺が元々あったのは電々ビルの所で、明治4年の普化宗廃止の太政官布告後も連芳軒は残っていたということになる。
 この寺の移転のきっかけは、先に整理した明治14年の福島大火によるお寺の消失ということだ。
 「道ばたの文化財」によると、この記念碑は、明治8年に電々ビルの旧地に建立されたて、昭和30年に現在地に移転したとある。その情報とも一致する。
 先の神保政之助との関係だが、突然訪れたのが、明治10年頃で4年間この跡地に住んだということだ。
 その地は、現在の電々ビルの所ということになる。福島に4年間いてその後北海道の小樽に……というのは、この福島の大火で寺が焼失することに伴って、小樽へ行くことになったことが想像される。そして、そこで師の堀田氏と再会し、「三谷」を作曲したということになるのだろうか。
 晩年福島に戻るという行動も自然に思える。

 確認していく中で、安洞寺で行われたという「尺八による神保政之助供養の演奏を紹介するページ」を見つけた。
Commented at 2009-07-25 18:45 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2009-07-26 13:12
 資料ありがとうございます。
 確かに、虚無僧というものを確認する視点として、宗教としての側面・音楽としての側面以外に、武家社会の中で生活者としての側面が考えられますね。
 小さい頃の時代劇の活動映画の中でみた虚無僧は、まさにこの武士社会の中の生活の中の側面ですよね。

 湯屋業を営んでいるということは知りませんでしたが、考えてみたら、移動の特権を与えられて自由に動き回るということですから納得です。
 そう考えると、この東側に料理屋や宿屋が並んでいたはずで、寺の並びとそれらの接点としていい位置とも思えますね。

 市史の著者が、武士の目で見ているのは、連芳軒創設を寛永14年(1637)としていることからも分かりますよね。
 1599年創設の連芳軒があったという説も一応考慮すべきで、それに幕府が特権を与えたり、共同化を推進したりする中で、武士層がその存在を意識して、記録に登場するのが、1637年というふうに考えるべきだと思うのですが、どうでしょうか。
 勿論、そこには宗教者としては堕落していく虚無僧の姿があったという点はあり得ると思います。

 私見も交えて、御礼まで。
Commented by boozer at 2009-07-26 22:03 x
 「道ばたの文化財」は未読なので恐縮ですが、確かに宗教者や芸能者としての虚無僧と、「福島市史」の記述に見られるような、幕藩体制下の史料に現れる統制下された虚無僧の姿という視点の違いがあるようですね。

 普化宗について「福島市史 福島の文化」では「聖的芸能者」という言葉を使っていますが、教典もないということで正直理解に苦しんでいたところでした。「吹禅」つまり座禅のかわりに尺八を吹いて瞑想した修行者たちといったところでしょうか。

 湯屋業については、宗派として営んでいたようで興味深いですね。
http://www.chikuyusha.jp/syakuhatisyouki/96komusoudera/96top.html
http://blog.goo.ne.jp/goo3360_february/e/b8f153378bf9f820ce4b1f1eda73624f

 連芳軒の開山については、「福島市史」のうち「福島の文化」は慶長4年(1599)、「近世Ⅱ」は寛永14年(1637)ころとしています。寛永14年説が何に拠るものかは不明ですが、shingenさんも紹介されている明治8年建立の「開基古山一風上座の墓碑」は、慈恩寺の過去帳や連芳軒の位牌から開山を比定したものでしょうから、墓碑の通り慶長4年(1599)説を取るべきかもしれませんね。
Commented at 2009-07-27 21:02 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2009-07-27 21:36
 普化宗が宗教として明確さがないということはあるでしょうが、わが国では、宗教的な畏敬の念を持つのは、山で修行した方であったり、自然への畏敬だったり、中国の思想や仏教・神だったりと混然としているのが自然だったのだと思っています。

 今年人の死が社会の都合によって世に政治家と言われる方々がお決めになりましたが、本来はそのことをしっかり悩みぬいた人が決めるべきことなのに。
 明治時代にも、同じように社会的な都合があって、政治家の方々が宗教の概念をお決めになって、その感覚が私たちに染み込んできているのだと思います。

 専門の方々は、決められた定義によってとらえなければならないでしょうが、散歩を楽しむ立場からは、おっしゃる通りのとらえ方のほうがすっきりすると思っています。
 もう一つの分かりにくい要素は、宗教に教義を極める側面と糧と教義を結びつけて社会の中に生きる側面があるということもありそうですね。湯屋業が宗教活動とどう結びつくかというのは、こちらからの側面かもしれませんね。
Commented by shingen1948 at 2009-07-28 14:10
 資料ありがとうございます。この基礎となる資料が、文知摺観音の資料館に展示されていたのですが、なんとなく心に引っかかってはいても、その意義が分からなかったということです。
 さすがにきちんと整理されていますね。感心しました。

 「道ばたの文化財」は、一項目について、B5版1ページ程度に整理されたものです。内容は紹介した程度です。古い本で、昔これを基にして散歩していた方から譲り受けたものです。時々間違いなどもあるのですが、その代り誰も着目しないようなものまで載っています。
 挑戦して探してみるのですが、まだ見つかっていないものが多いです。
 
by shingen1948 | 2009-07-25 05:02 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(6)