地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

飯坂東線④~伊達橋騒動②

a0087378_5374490.jpg
 これは、О氏という方の顕彰碑のようだ。
 いろいろな地区の問題の解決に貢献したということで建立されたものらしい。地区民による顕彰は、時には主観的で公共の価値観と遊離することもあるだろうが、個人の隠れた功績を語り継ぐ意義は、日本人の美学の一つかもしれないとも思う。
 この碑に、貢献したことの一つとして、伊達橋事件も入っている。この碑の方が、この箱崎の地域代表として伊達橋騒動や他の地域の問題に真剣にかかわってくれたということということなのだろう。

 この伊達橋騒動の時代は、地域の身近な問題は、地域に生活する人々が決定していたのだ。
 当時のこの辺りの自治は郡会という郡単位の地元密着議決機関であったのだ。桑折の郡役所その実行機関としての郡役所だということだ。


a0087378_5384617.jpg
 この碑は、元箱崎小学校跡地記念碑近くに建っている。

 散歩の中で、こんな背景を感じながら、「ふくしま一世紀」にある「伊達橋騒動」の具体的な内容を読む。

 
 大正3年(1914)2月の郡会で、この橋の位置が決定することになったという。その段階での議員獲得合戦では、長岡・保原側は17人しか確保できなかった。それに対して桑折側は23名を確保して、断然優位に立ったという。
 そこで、長岡保原側は強引な議員奪取作戦を展開する。
 桑折側はそうはさせないと、自派の議員を金茂旅館に集めて、1000人の若者を動員して旅館を守らせたというのだ。
 それに対抗して、長岡保原側は2000人の若者を動員して桑折町内になだれ込んで、旅館を総攻撃に打って出たというのだ。

 どちらも地域の振興がかかっているので必死だ。
 長岡保原側の若者は、酒樽を積んで飲み干しては、その空になった酒樽に旅館に投石するための石を詰めて運んだという。
 桑折側の若者も、投げ込まれた石を投げ返して大混乱になったようだ。
 更には、態度のはっきりしない議員が放火を受け、全焼1半焼1の被害が出したともいう。
 この騒動は、5日間も吹き荒れて、福島と仙台から警官隊約2500人動員されようやく鎮圧されたとのことだ。
 ここで、福島県初の騒乱罪が適用されて、指導者クラス16人に懲役8年から罰金刑までの処分が下ったという。

 騒乱を具体的に整理したのは、騒乱自体は認められるべきものではないが、そこに地域を思う強い心を感じたからだ。
 お洒落な都会では、こんな騒動は起きないだろう。それは、地域の振興にそれ程強い思い込みがないからだ。例えあったとしても、その決定に自らが直接かかわることはない。
 組織が大きくなった都会では、自分たちの問題は他人任せにならざるを得ないところがあると思うのだ。
 この行動の背景にある地域を思う気持ちの強さが、羨ましい。
by shingen1948 | 2009-07-20 05:43 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)