地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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飯坂東線

 最近歩いていたのは、芭蕉が飛ばした奥州街道と重なる。芭蕉は、福島宿から文知摺観音から奥州街道を横切り飯坂に向かい、そこから桑折に入って、奥州街道に入る。
 そのあたりは、飯坂東線の交通網の主要部とも重なる。

 経験的には、飯坂東線については、福島の市内をちんちん電車でちょっと移動するといった手段としてしか使ったことしかなかった。それで、その創設の目的もそれに類するものと勝手に思い込んでいるとろがあった。
 歩っていて、その経験による思いと何かが少し違うと感じた。
 この線が、湯野や保原・梁川・掛田方面とも繋がっているということを知ってはいた。
 また、長岡分岐点という駅名が印象に残っていた。その地域が実感を通して結びついたり、長岡が伊達駅あたりだったりしたことが分かると、この電車のもう一つの目的が実感と結びつく。
 それは、地域の中心市街となっている拠点同士を結ぶ都市間交通としての役割を担っていたということだ。
 しかし、建前の目的は、「飯坂温泉と結ぶ遊覧」としてスターとしたという。それで、飯坂東線という名称を使ったりするらしい。

 この飯坂東線を視点に歩いてはいないのだが、その名残にいくつか出合っている。「鎌田村大火」とのかかわりで、少し整理しておく。
a0087378_644649.jpg
 これは、湯野の停車場跡だが、ここは建前の目的地点として、福島―長岡―飯坂という基本路線のその飯坂の地点としての意味を持つ。


 もう一つ重要な地点は、長岡分岐点だろうか。ここは、まだ確認していないが、本来の目的である福島方面、湯野方面、保原・梁川・掛田方面が交差する場所としてだけでなく、建前の目的のために飯坂と結ぶ役割をになった地点として、路面電車の要衝の役割を担う。
 ここには車両の検査や修繕を行う「長岡車庫」や国鉄伊達駅との連絡線があったという。恐らく乗り換え客で賑わったことだろう。

 「ふくしま一世紀」によると、明治33年(1900)頃は、現在の伊達駅である長岡駅自体も、この鉄道とかかわる飯坂温泉の玄関口となっていたという。
 頭に長岡分岐点という駅名が残っていたのは、そういうことだったらしい。
by shingen1948 | 2009-07-17 06:12 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)