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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鎌田村大火

 「宝積寺周辺の変遷」に大正11年の軽便鉄道の煙突から出た火の子による本内大火と紹介されていたその記念碑は、大日堂にある。
 この大日堂については、案内板に次のように説明されている。

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 大日堂
 享保年間(1730)の頃、天台宗松尾山本福寺として、東面して建立された。元治2年(1864)の頃に類焼し、同年再建された。大日堂は残ったが、本福寺は廃寺となったと伝えられる。
 本福寺は伊達郡成田村(桑折町)天台宗医王山正法院東福寺の末寺であった。
 本内大日堂は本殿焼失後も御尊体が残り、1864年儀山海代法印が守護してきたのが現在に継承されたる
 岩城国信夫郡本内村字東町、本堂は縦7尺横6尺で、約90坪の境内には杉木なと20本近くあった。江戸時代の末期より曹洞宗正福寺の離れ境内として管理されるようになる。
 御尊体
 大日如来 金剛界1体(その説明略) 
        胎蔵界1体(その説明略) 
 毘沙門天 1体(その説明略)
 不動明王 1体(その説明略)

 ここは、奥州街道を確かめたり、この辺りの館跡をたどったりする時に何度も通っていた。軽便鉄道は、奥州街道に沿って通っていることも知っていたが、この南側に「大日堂」という停留所があって、これが昭和2年に、「禍を転じて福となすの碑」として建立された記念碑だということを知らなかった。
 「ふくしま散歩」に紹介されていたのを見て、改めて碑文を読み返してみて分かったのだ。漢文で書かれているので、全部は読み取れなかったが、同誌にこの碑に書かれている火事の経緯と、その解決にいたる経緯が紹介されている。
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 この鎌田村の大火は、大正11年5月19日午前10時頃の出来事だった。
 この日は、二十年来の烈風が吹き続いていた。また、この辺りはわら屋根の多く、しかも乾燥した日が続いていた。そこに、軽便の煙突から火の子が飛び、たちまち火災となってしまったということだ。
 最初、当時の豪農「佐久間左一郎」宅のかや屋根に燃え移り、それが、あれよあれよという間に本内舟戸の2部落45戸を一なめし、87棟が全半焼したという。
 この火災による被害は、死者1名、負傷者6名、当時の金額で三十万円という福島地方では未曾有の損害だったとのこと。
 この日は、福島競馬の開催中で、構造の悪い機関車に無蓋車を連結し、逆風の中を驀進したため、途中でも2,3の小火事を引き起こした後のできごとらしい。

 直ぐに、官衙、学校、各種団体、有志から罹災者に対する同情の義捐金が集まり、7200余円が届けられたり、県支出として、20000円の見舞金が送られたりした。
 被害者は、佐久間左一郎、山地泰造を代表として、川俣在住の渡辺弥平社長及び大内虎之助専務を相手取って陳情を続け、東京の弁護士風間力衛が応援、今村力三郎弁護士も裏面的に応援し、信達両郡の郡長の仲裁が効を奏して、3年後に見舞金5万9000円を支出することによって、この問題は妥協の線に落ち着くことができたという。
 この蔭には後に社長になった熱血漢の侠客吉田左次郎親分の大きな威力が強く動いたといわれるともある。
 軽便から、早く電化しようという切っ掛けになったとこの事件を評価して、「禍を転じて福となすの碑」というらしい。

 散歩の後で確認するのは、写真で見る懐かしい景色でしかない。鉄道沿線になることを避けようとした心情的な背景などが納得できる。
by shingen1948 | 2009-07-16 06:20 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)