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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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宝積寺と長楽寺④

 今回の「宝積寺周辺の変遷」をもとにして散歩して、イメージがはっきりしたのは、内堀と外堀の位置関係だ。
 特に、「三の丸通り」と外堀が二つの寺の間を通るあたりが、分かったような気がしている。
 「三の丸通り」については、次のように説明する。
 六軒町を挟んで、この奥州街道の裏の通りが、三の丸通りと呼ばれていて、長楽寺の山門前で、左に折れて横町通りに通じていると表記する。

 六軒町というのは、現在の地図には無い地名だ。板倉藩上級武士の宅地があった所とのことだ。
 「宝積寺周辺の変遷」では、次のように説明する。
 北町バイパスと平和通りの角に9階建の三井生命ビルがあり、続いてふくしまホテルや朝日新聞福島支局・上町と接する福島交通労働会館まで、そして裏の道路との一角が六軒町といって、板倉藩上級武士の宅地があったところである。
 「横町通り」というのも、地元の方の通称だ。
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 出世稲荷の写真説明では、福島城三の丸角とある。この稲荷は旧三の丸の鎮守で、東北(うしとら)の鎮護らしい。


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 この神社の西側は国道まで、現在は空き地だが、旧日本赤十字福島支局の東端にもあたる。日本赤十字福島支局は明治27年の設立で、救護団体博愛社がその前身だったとのこと。


 外堀については、次のように説明する。
 当寺と長楽寺の境に近年まで阿武隈川に通ずる堀があった。この堀は福島城の外堀で武家屋敷を囲んで、三の丸通りと並行して当寺の横を流れていた。現在堀は埋められいつのころからか長楽寺の墓地になっている。堀であった所だけが地盤沈下しているので、その跡を知ることができる。
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 しかし、墓地を見回しても、その凹凸を感じ取ることができなかった。ぐるっと廻って、長楽寺の墓地参拝客の駐車場が、極端に低く、その延長線上を確かめると、墓地につながっているようだ。多分、これが外堀と関係ありそうだと勝手に思う。


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 船場については、幾つかの説明がある。
○ 一般の船荷の積み下ろしや渡しの船場は、門前の道を通り三の丸の端の外れにあった。平
○ 和通りの突き当たりのガソリンスタンドの横の道を直進して、阿武隈川畔に突き当たった辺りだ。
○ 松齢橋から100メートルほど下った辺り。
 これらから、地図に表記した場所あたりを想像して見た。

 懐かしい紹介が、「葵寮」・「福島医学校跡地」、更には「ちんちん電車」だ。これらは、実際の風景を目にしている。
 現在の福島大学職員会館が、明治32年福島師範学校女子寄宿舎と建てられ「葵寮」跡地。福島大学職員会館は、平成4年に建て替えられた。
 東分庁舎が、明治14年福島医学校跡地だ。医大祭で一度中に入ったことがある。
 ちんちん電車(福島電気鉄道路面電車)は、大正15年から昭和45年までこの辺りは奥州街道を走っていた。それ以前は、信達軌道の軽便鉄道で、これは明治41年に奥羽6県連合会供進会に合わせて瀬の上まで走って走ったのが最初とか。
 大正11年この飛び火で本内大火が起きているとのことだ。
by shingen1948 | 2009-07-15 12:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)