地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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宝積寺と長楽寺②

 宝積寺縁起によって、晴宗公の菩提寺としての創建を整理し直しておく。
 永禄8年(1565)に奥州探題・米沢城主伊達15代晴宗は、家督を長子輝宗に譲る。そして、末息の杉日直宗の居城である杉目城(大仏城)に隠居される。
 この時、晴宗は、剃髪して道祐と名乗り、夫人の栽松院を伴っている。
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 天正5年(1577)に、菩提寺として実積寺を建立する。

 この宝積寺は、往時、杉目城から城続きに広大な境内地に、七堂伽藍をもつ大寺院であったと言い伝えられているという。その境内の一角に栽松院(庵)が建てられ、栽松院夫人も住まわれて居たとも伝えられているとのこと。


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 その境内の一角にあったという栽松院(庵)の位置は、現在の長楽寺あたりとのことだ。
 これは、その長楽寺を本荘繁長の墓あたりからみているところだが、ここらあたりが栽松院(庵)とイメージする。そして、ここも含めて広大な寺地をイメージすれば、往時の宝積寺ということになるのだろうか。


 道祐時宗は13年間を大仏城で過ごしているが、天正5年(1577)12月5日、杉目城で59歳の生涯を閉じる。
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 その御廟が、現在の宝積寺内にある古い五輪塔ということのようだ。
 傍らの墓誌には、「従四位下左京大夫伊達時宗墓 天正5年丁丑12月5日卒葬干」とあるとのこと。
 これは、16世孫従3位伯爵伊達宗基によって明治43年12月5日に建てられたとのことだ。法諡は「乾徳院保山道祐大居士」とおくられ、位牌も宝積寺に安置されているという。
 
 伊達晴宗(永正16年(1519)~天正5年(1577))は、独眼竜の伊達政宗にとっては、祖父の時代の話になる。伊達稙宗の嫡男であり、天文の乱ではその伊達稙宗に対峙した方だ。天文の乱では、地頭領主層を味方につけて勝利し、伊達家当主の座について米沢に居城を移している。
 その晴宗の墓がここにあることを理解するには、家督を継いだ晴宗の後日談が必要だ。

 米沢で、基本的には、父稙宗の政策路線を踏襲せざるを得なくなったようだ。
 稙宗と同様に、多くの子女を奥州諸家に入嗣・入嫁させ、勢力の拡大を図っている。また、家中の知行改めを行って権力の掌握に勤めたが、うまくいかなかったようだ。
 この乱の立役者である中野宗時父子の専横を抑えきれず、子輝宗との対立を深めていく。
 それで、晴宗は、夫人と末っ子の直宗を伴って杉妻城に隠退したのだ。
 このことについては「ふくしまの歴史」をもとに「伊達氏の歴史を杉目城から見つめる晴宗氏夫人」として整理した。「ふくしまの歴史」では、その晴宗の夫人栽松院の悲運な一生を「悲しみの一生杉妻御前」として紹介している。
by shingen1948 | 2009-07-13 05:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)