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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫橋9~甚兵衛大火

 福島市に、歴史的な風景が残っていないのは、開発によることだけがその理由ではない。甚兵衛大火によって、街の風景は焼失したことが大きいらしい。
 明治14年(1881)4月25日に信夫橋のふもと風呂屋みどり湯が火元で、ここから新町付近まで約1800戸を焼き尽くしたという。旧市内の東側を除いて、ここから信夫山の側までの範囲がほぼ焼き尽くされてしまったということだ。
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 半沢氏のフィールドワーク地図によると、その火元のみどり湯の位置が、信夫橋を渡って直ぐの奥州街道との西裏通りの中間あたりとのとで、そのことを先に「福島の歴史的風景リセット:甚兵衛火事」として整理した。
 人がかかわった災害である火事とか、騒動とかという利害関係が生じることは簡単に情報がみつからないのだが、「野口荘太郎の碑」の碑を確認するために開いた「ふくしま1世紀」に甚兵衛火事の情報があったのをみつけた。また、このあたり散歩を通して、少し具体的な状況が見えてきたというこちら側の状況もある。
 甚兵衛火事のイメージをちょっと膨らませて付け足す。

 この火事の時にかかっていた信夫橋は、明治7年に対岸まで木橋が架設された橋だったということになる。信夫橋の名橋「13眼鏡橋」ができるのは、明治18年だ。
 したがって、通称ガンタラ橋といわれていた板をしまった小屋は、そのままこの時代にも、この銭湯の隣にあったという状況だろうか。
 橋だけではなく、道路も風景的にも、江戸の街並だったのだろうと思われる。旧4号線が、二本柳宿あたりまで改修整備されるのは、翌年の明治15年から明治18年にかけてだ。

 この火事について、「ふくしま一世紀」で新たな情報をみつけたことを付け加える。
 その一つが、この火事は県会開催中の火事だったということ。県庁日記に、火事の概況が記録されているという。
 午後4時10分、福島町の信夫橋たもとから出火し、ほぼ10分後には火は中心街に達す。激烈な南風の中の大火なり。夜9時すぎ鎮火。
 かなり速い火の回りだったようだ。逃げ遅れて亡くなった方が7名いたとのこと。また、6つの銀行が焼けて生糸代金札が焼けたが、風向きの関係で、県庁と県会議事堂は焼け残ったとのことだ。県議たちも礼服のまま防火に当たったそうだ。

 初代福島県庁舎が完成するのは前年の明治13年(1880)10月だから、旧福島城から県庁が新庁舎に移ったばかりだったのだろう。
 このころ、全国的には、10年後の国会開設を約束されたころで、県会は、明治12年から選挙の実施と県会が開かれることになるという状況であったようだ。福島県は、それより早く、明治11年(1878)に実施されているという状況だ。この辺りはその中心地として熱気にあふれていたころだろう。
 疑問があるのは、県庁が焼け残ったというのは分かるのだが、県会議事堂も焼け残ったということだ。というのは、県庁の隣接位置に議事堂が独立してできるのは、明治15年だと思うのだ。
 この火事で県会議事堂は焼け残ったのではなく、まだできていなかったはずだと思うのだが、……。
 関連して興味があるのが、県議が礼服のまま駆け付けたというが、その議場はどこだったのだろうということだ。県会議事堂が出来上がっていないので、それまでの仮議場は常光寺や西蓮寺だったのではと思うのだが、……。
 もし、常光寺だったなら、相当な混乱だったろうなと想像する。もっとも県庁近くだったとしても10分後にはもう火は燃え移ってきてはいるが、……。

 新たな情報の二つ目が出火原因だ。キセルから火種が縁の下のカンナくずに落ちて、それが燃え広がったということらしい。
 「キセルのがん首から飛び出したたばこの火が、ひょいと縁の下のカンナくずに落ちた。それを拾おうとした時には、ボッと燃え上ってしまったと焼け跡でわび続けた人影がいた」とある。その人影が、銭湯の客なのか、家人なのかはここからは分からない。
 火元の甚兵衛は焼け跡をわびて回った後消息を絶ったことも、記されている。

 この時の消火活動だが、地元「い組」のマトイ持ちとしての花形、野口荘太郎は、健在だったはず。マトイ持ちの後ろを数少ない手押しポンプががらがらと引っ張られていく。そんな火消し風景か。ただ、消火器具は竜吐水という水鉄砲が中心だったとも。
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 古峯講記念碑(柳町大火)を信夫橋のたもとに建立するのは、明治31年になってからだ。明治27年に、現在の消防団の組織が出来上がって、この大火を教訓にしようという意識の高まりの中だったのだろうと想像する。

 おおよそ、こんなイメージだろうか。
by shingen1948 | 2009-07-10 05:08 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)