人気ブログランキング |

地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

信夫橋8

 信夫橋から戻るのに、北側の土手から内務省仙台土木出張所跡の後側の道を降りて、学校の裏から、常光寺へ出た。
a0087378_671645.jpg
 この常光寺については、先に「奥州街道、西裏通り」の寺の一つとして整理していた。


 今回は、漠然と、先に整理した時に、天狗党の乱の供養碑を見落としていたなと頭にあって、曖昧な記憶の中、それを確かめてみようと思っていた。
a0087378_6632100.jpg
 門前をあちこち眺めていて、「野口荘太郎の碑」が目についた。曖昧な記憶だが、火事の火消しで、まといを持って上がった屋根が崩れて亡くなった方では……。
  曖昧な記憶ながら、とりあえずデジカメで撮影だけしてきた。

 家に戻って「ふくしま1世紀」(福島民友)を確かめる。
 その「甚兵衛大火」とのかかわりで、当時の福島の消防組織について説明があった。
 この時代の消防組織は江戸中期から町内を6つに分けて、火事があるたびにまとい持ちを先頭に駆けつけて、火消しが終わると、火消し札を消火位置に立て、後で、類焼をまぬがれた人々が火消し札に金品をつけて返すというシステムだったという。
 野口荘太郎についての説明もある。
 火事場の花形まとい持ちで、自分たちの組の火消し位置を示すため、高い屋根に上がって、まといをふる。
 野口荘太郎は、甚兵衛火事の地元「い組」の花形マトイ持ちだったという。
 明治23年の大森郊外の火事の際に、まといを振っていた屋根が焼け落ち火ダルマとなって死んでしまった。その殉職碑が信夫橋に近い常光寺にあると説明されている。

 現在の消防団の組織が出来上がるのは、明治27年、消防ポンプが登場するのは大正時代になってからだったという。
 また、「い組」では明治16年には県内で初の蒸気ポンプを導入したが、いったん動き出せば威力を発揮するが、薪を燃やして蒸気をつくってそれから動き出すということで、大概は手押しポンプに先を越されていたという。この蒸気ポンプは、阿武隈川の蒸気船が浅瀬で動けなくなったものを買い取って改造したものという。

 めざした天狗党の乱の供養碑は、この碑の隣だったらしいが、今回も見逃している。
 またの機会に。
by shingen1948 | 2009-07-09 06:22 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)