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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信夫橋6

 信夫橋は、奥州街道の福島宿の玄関口となる。
 
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 川幅は広いのだが、実際の流れはそれほどではない。古くは、「須川の渡し」と呼ばれて、舟・馬・川にん測で川を渡ったという。(「ふれあい歴史館」擬宝珠展示説明より)
 信夫橋の原型は、江戸時代までは、流れに板を渡しただけという板橋だったという。通称ガンタラ橋といわれていたという。
 対岸まで木橋が架設されるのは、明治7年とのことだ。
 したがって、半沢氏によれば、案内板にある枡形跡は、ここよりも川に入った位置にあって、稲荷は枡形の中央あたりにあったと推定されているようだ。


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 この橋に使われた板は、水が増えると外して、小屋にしまったという。
 その外した板を置いた小屋が、みどり湯の手前ということなので、多分この辺りだと思われる。
 この西側は学校になっているが、以前はただの川原だったということだ。

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 今回、信夫橋のやや南側にある大森川にかかる橋の袂に、平成12年10月に杉妻地区歴史保存会と郷野目町内有志の方が設置した奥州街道一里塚跡の碑があるのをみつけた。
一塚跡(旧奥州街道)
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸日本橋を起点とし、一里(約4㎞)ごとに道の両側に塚を築き街道の距離を示した。

 一里塚は、実物をいくつか見たことがある。
 「二本松下街道八田野一里塚」「二本松街道御上覧場一里塚」については、先に整理しているが、こんな塚だったのかなとイメージするのに参考にすることはできる。
 ただ、どちらも江戸幕府が築いたものではなく、会津藩がこれにならって、寛文7年(1667)に若松札の辻(大町四つ角)を起点として一里塚を築くことになったものだ。


 一里塚のイメージ補助として、この二つの写真を張り付ける。
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 八田野一里塚は、寛文10年(1670)に8日間を費やし延べ570人の代田組配下の農民の人側によって築かれたものとの案内があった。


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 御上覧場一里塚もこの時代の会津藩によるもので、塚の上に榎を植えたので榎壇というところもあるとの案内があった。
 ここの案内では、一里塚の誕生は、豊臣秀吉が朝鮮役中に山陽道備中河辺から北九州肥前名護屋の間に一里ごとに設けたのが始まりとし、一般には慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を起点に東海・東山・北陸の三街道を整備させたものとしている。


 奥州街道の一里塚跡は、ここでの案内ではじめて見たが、その根拠となる資料については分からない。
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 この両側に塚があったことをイメージする。それから、信夫橋に向かうと少しだけ古い時代の雰囲気に出会ったような気分にはなる。
by shingen1948 | 2009-07-07 05:30 | ◎ 奥州街道 | Comments(0)