地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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北矢野目館主~福地帯刀②

 北矢野目館主の福地帯刀と佐野氏の家臣団の福地帯刀が同一人物なのか、それとも同じ名前に過ぎないのかは分からない。
 とりあえず佐野氏の家臣団の福地帯刀についても得た情報を自分なりに整理しておくことにする。

 福地帯刀とかかわるあたりの佐野氏を確認する。

 佐野氏系図のうちの「氏忠」あたりに、福地氏の家督が智之(福地帯刀)に代わっていると考えられているようだ。
 「氏忠」あたりの佐野氏系図
 ―昌綱―宗綱=氏忠=宝衍=信吉―久綱
 -宝衍
 年代を確かめるのに分かる情報の一つは、昌綱が亡くなった年で、天正2年(1574)だ。
 この昌綱の頃は、佐野氏は上杉氏と北条氏に属し、どちらかに属すともう一方より攻撃を受けるという状況であったようだ。このあたりの時代、天徳寺宝衍(佐野房綱)という昌綱の弟が、次の代の宗綱まで、佐野氏当主を補佐したようだ。
 宗綱の頃は、佐野氏は北関東の領主とともに反北条氏の体制をとり、その中心、佐竹氏に従って合戦に参加したと見られているらしいう。

 次がいよいよ福地帯刀とかかわる氏忠になるのだが、天正13年正月、当主宗綱が長尾顕長との合戦で討死し、家督相続をめぐって佐野氏家中が対立した時代になるようだ。
 佐竹氏より養子を迎えようとする宝衍派は、北条氏から養子を迎えようとする勢力に敗れて退去する。
 佐野氏は北条氏領国に組み込まれたのだが、その北条氏が天正18年に滅亡してしまう。すると豊臣秀吉と関係を深めていた宝衍が再び復活し佐野氏家督として認められ、富田知信の子、信種(信吉)を迎えたという経緯になるらしい。
 この信吉は、父が小牧山合戦での和議功労者である豊臣家の御家人で佐野氏に婿養子に入るが、宝衍とは反目していたようだ。宝衍が亡くなると、その関係者を何人も浪人に追い込んでしまったらしい。
 信吉も文禄19年(1611年)に徳川政権下で改易され、配流に処せられてしまう。のち元和8年(1622年)赦免されるが、佐野氏は大名としてではなく旗本として命脈を保つに留まったという。

 このあたりの福地家臣だが、佐野家の「御客家」として,福地丹波守綱久,その子の福地出羽守寧久,その孫の福地帯刀智之の名が見えるという。
 帯刀の父福地出羽守寧久が,天正15(1587)年10月28日付 佐野氏忠の書状の宛名に現れるらしい。ただ、このあたり、帯刀宛の書状が多いので、福地家ではすでに帯刀が家督に代わっていると考えられているようだ。
 帯刀は、佐野氏忠の時代に、高瀬遠江、大貫大和、高山外記、津野孫十郎とともに佐野氏の五奉行に任じられ、参陣・初雁の上納などを命じられているようだ。
 宝衍の頃は、積極的に領内を統治し、年貢や賦課、領内の年貢高の確定、不作地の減免など、農民の負担軽減と開発を進行させたという。また、佐野信吉の頃は、馬一匹および足軽20人を預けられているらしい。

 佐野信吉の生没は、1566~1622とのことで、北矢野目の福地帯刀が慶安3年(~1650)なので、時代的には同じころではあるが、……。よく分からないが、ともかく情報の整理だけしておく。
by shingen1948 | 2009-07-01 05:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)