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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大壇部落名称起源之地碑

 度重なる洪水に悩み、代官古河善兵衛の主導で壇を築き避難所となっている所があるとのことで出かけたのは、5月だったが整理していなかった。

 この時は、今の阿武隈川の右岸土手より一本東側の道を歩きながら、土手を探した。
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 なかなか見つからずに、左右にぶれて歩き直したりしながら進むと、右側に気になる高台が見えた。


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 畑をよじ登ってみると、それが古い時代の土手らしかった。このときは、この堤防が代官古河善兵衛の主導で築いたものだと思っていた。


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 これは明治27年に完成した大壇堤防とのことだ。
 明治23年阿武隈川大洪水で岡山村全体で64戸が流失し、その翌年、赤司県令に堤防構築を陳情し、明治27年に完成した。


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 現在は桜並木の道路となっている。かなり立派な堤防だ。


 そこから国道沿いにある大壇部落名称起源之地碑を確かめに向かう。
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 国道沿いの高台に愛宕神社があった。


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 その脇にこの大壇部落名称起源之地碑は建っていた。
 写真に収めて確認しようとしたが、写りが悪いところがあって、ちょっと読み切れていないが、いろいろの資料の助けを借りると以下のようなことが分かる。
 このあたり、元和5年(1619)に上杉家臣齊藤政親が開墾、後、阿武隈川氾濫時に避難場所として上杉家臣古川善兵衛がこの大壇を築いたという。頃は寛永年間(1624~1644)。
 また、阿武隈川の大洪水は、寛文・享保・文化・文政・天保・安政・明治23・同29・同30・大正2にあったこと。


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 神社の奥に、大壇愛宕神社のいわれを説明する案内板が建っていて、この塚が代官古河善兵衛の主導で築き避難所となったという壇だということが分かる。


大壇愛宕神社
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 当地は地勢低地のため阿武隈川洪水の度氾濫し、住民が非常に悩んでいた。これを憂慮した時の代官(古河善兵衛)は江戸時代・寛永15年(1638)に大いなる壇を築き洪水時の避難所としたことは、境内に建つ大壇部落名称起源之地碑文に記されているとおりである。
 後年に於いて壇上に石祠を建て愛宕権現を祀り産土神として崇敬してきた。明和7年(1770)に当地の山口村の名工藤原右源次によって堂宇愛宕堂が建立された。なお、当初の石祠は今も社殿の西裏に安置されている。又、昭和に入り58年に社殿の隣に参篭堂を新築、平成19年には神社参道入口に鳥居も建立された。
 幾多の変遷を経て明治に至り愛宕神社とされ現在に至る。社殿には御神像(騎馬勝軍地蔵)が安置され、奉納者は斎藤八右衛門という方です。御祭神は火結命(火除せの神)として信仰されている。
 平成21年4月吉日 建立
 大壇愛宕神社氏子会一同



 その後ろに経塚があり、次のように説明する。
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 この経塚は、江戸時代元文4年(1739)の夏大壇を水害及び諸々の災害より守り部落の永世安穏を念願して常円寺6世月泉和尚が法華経の文字を一字一石に記した多量の経石を納し災障除、部落の守護繁栄を祈願した神聖な霊場である。大正14年秋、聖域の保護と崇敬の念を喚起し、苦難の歴史を後世に伝承すべく報恩顕彰碑を建立する。


 このあたり、上杉家臣齊藤政親が開墾したということであり、また、この後、阿武隈川氾濫時に避難場所として大壇を築いたのは上杉家臣古川善兵衛であるということで、カテゴリーは、「天地人の時」にしておく。
Commented by 貴&智 at 2010-04-20 00:28 x
横浜市在住の貴&智と申します。記事を見てうれしくなり失礼ながらコメントさせていただきます。私の苗字は「斎藤」で実家は「大壇堤防」の近くです。私の手元にある「大壇経塚240年祭記念誌」によると、斎藤政親は伊達家臣だったとあります。輝宗は天正13年に二本松で畠山義継に拉致され死亡しますが、その際引責辞任した家臣18名の1人斎藤豊前政教の嫡子・斎藤次郎兵衛政親が当時の当地領主である上杉家の代官・平林正恒から「三百石開畑許状」を得て同志3名と共に入植したのが大壇集落の起源とのことです。上記は地元の方が調査されたようです。昔から、(輝宗の家臣であったという)元の資料があったら見てみたいと思って調べていますがよく判りません。もし判ればご教示頂きたいと願っております。
Commented by shingen1948 at 2010-04-21 11:32
 コメント、ありがとうございます。
 散歩で出会ったことを確かめて楽しんでいる者なので、詳しいことは分かっていません。

 ここの歴史は、地元の資料の積み上げで解明されているのだと思います。
 地元の資料の積み上げの場合、自己都合が働きやすさがありますが、ここの場合、許状を受けるというような事実は、ゆがめられる要素がないので、信用性が高いと思っています。

 家臣団関係についても、何で確かめられているかは、承知していません。
 伊達家臣団の由緒や履歴をまとめたものに「伊達世臣家譜」というのがあるそうですが、そこに載る方かどうかも分かりません。
 ご存じのように、伊達氏は、石那坂で戦功を挙げて伊達を与えられると直ぐに移住してきます。それ以来、この伊達信夫を基盤に、征服戦争で、地方の独立国人を旗下に入れて、村落地頭クラスの者を家臣団に編入していきます。ですから、その数は膨大だと思います。

 出陣命令などの資料だったり、地元の資料の積み上げだったりしているのかも知れませんね。
Commented by 貴&智 at 2010-04-21 23:24 x
・早速コメントをいただき、ありがとうございます。
・「伊達世臣家譜」を機会があれば調べて見たいと思
います。
・私個人としては、斎藤政教・政親の父子は伊達輝宗
の死に際して殉死でも政宗家臣団への吸収でもなく、
帰農したということから、それほど重臣というもので
はなかったのではと考えております。
・ただ、「開畑許状」については上記「記念誌」に写
真が掲載されていますが、割合本物っぽいです。ご参
考に許状の文を載せます。

  三百石開畑許状

 岡辺(部)村荒地
 三百石開作之
 所五年諸役
 御免許者也
 仍如件

元和五年未
 正月廿三日 平 林 <印>

   岡辺(部)村
     斎藤次郎兵衛
Commented by shingen1948 at 2010-04-22 06:15
 故郷を知ることが、自分を確かなものにすることがありますね。
 お手持ちの著書から調査された地元の方にたどり着く方法もありますね。
 
 実は、自分にとっては新たな視点でした。
 散歩のきっかけつくりに活用しているマップには、政親氏は上杉家臣となっていました。会津から禄が下がってもリストラせずに連れてきた家臣の一人という見方をしていたところです。

 本宮南町創設者は、伊達氏の資金を活用して、上杉氏とかかわる人脈から許状を手にしますが、そういうことなのか。伊達氏の家臣から上杉氏の家臣になったのか等々気になっています。

 いずれにしても、散歩で感じたのは、自分の立場を最大限に使って地域をよりよいものにしていくエネルギーであり、現在その地域に生活するものにまで恩恵を与えてくれるという公共性というものでした。
by shingen1948 | 2009-06-22 05:56 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(4)