地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「文知摺観音」での忘れ物

 性分で、有名な史跡では自分がおさえどころと思うことに焦点を絞ろうとするし、誰も教えてくれそうもない所では何でも見てやろうという気になる。自分勝手な見方をするので、家に戻ってからあれもちゃんと見ておきたかったと反省することが多い。

 何とか念頭操作で阿武隈川の流れをいじることができるようになると、「文知摺観音」でのこの見落としで気になるものが出てきた。
 その一つが、「虎が清水」の確認であり、もう一つが、ここで詠んだとされる松尾芭蕉の句が固定されていないらしいということだ。本当はもう一つ資料館にあった古い時代には全国的に名を馳せたという尺八の先生のこともある。

 奥の細道の松尾芭蕉は、五十沢から岡部渡りを舟で阿武隈川を越えて、ここ山口の文字(毛地)摺石・観音堂などをめぐったあと、鎌田・瀬上を通って医王寺・大鳥城など飯坂方面に向かう。その文知摺観音については、先に、「文知摺観音」として整理したのだが、その中で、「虎が清水」が入っていないのが気になった。
 曽良氏随行の日記をもとに確認すると、そこに「虎が清水」がさりげなく登場しているのだ。

 一行は、二日に八町の目から信夫郡の福島領に入っている。そして、福島町から五、六丁前の郷ノ目村(福島市郷野目)の神尾氏を尋ねるが、氏は三月に江戸へ行っていて留守。仕方なく御内儀と母堂に逢ってすぐに福島について宿している。日はまだ少し残っていたという。宿はきれいだったらしい。

 ここからが、一行が「文知摺観音」に立ち寄るところだ。

 一夜明けて一行が出立する時、天候は快晴であったという。
 奥州街道を五十辺村まで進むと、町はずれ十町程過ぎたところに川があったとある。恐らくこれは松川だろう。一行は、その川を越えないで、右の方へ曲がって東に向かったという。七、八丁行ったところにある阿武隈川の岡部の渡しを船で越して文知摺石へ向かったのだ。この「岡部の渡し」がラジオ福島裏手あたりだろうか。

 目指すは文知摺石であって、その位置を宿からの情報として記述する。

 その文知摺石は、宿から十七、八丁ほど東の山の方ヘ行ったところの谷あいにある。そして、その文知摺石の周りは柵が築いてある。そこに草の観音堂(文知摺観音堂)があり、杉や檜が六、七本ある。近くに、虎が清水という小さく浅い水があり、この辺りを山口村という。
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 この虎が清水は、観音堂の南にある。現在工事中で、前を走る東根堰を越えて近づく事はできなかった。


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 この虎の清水の隣の社と一緒に整備しようということらしい。


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 ついでに、観音堂前の案内板にあった「虎の墓」も確かめる。これが、虎の墓とのことだが、


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 それよりも、こちらの中世の板碑が気になった。文永4年鎌倉時代の板碑とのことで、丘に登って近づいてみたが、よく分からなかった。


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 新しく道が整備される前は、ここも一つの通り道だったような気がする。


 もうひとつの大きな忘れ物が、ここで詠まれたという芭蕉の句。文学に疎い散歩人は見逃していたのだが、ここで詠んだという芭蕉の句は、福島市内の句碑の中でさえ微妙に違うということらしい。
by shingen1948 | 2009-06-19 05:39 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)