福巌寺
2009年 06月 14日
獅子舞獅子頭も菊桐の紋のついた天明8年(1788)の紀年のある獅子櫃に収められて、この福厳寺に大切に保存されているという。
祭りも神社と寺が協力して執り仕切るということでもある。
この寺は、天文7年創建と伝えられ宝庫には明和4年勧請愛宕大権現将軍地蔵菩薩を本尊として祀るとのことだ。
それほど多くの寺を訪ねてはいないが、地蔵菩薩を本尊とする寺に出会うのは珍しい。今のところ大玉村の正福寺とこの福巌寺だけだ。なお、正福寺については、先に「元相応寺近郊の寺」として整理している。
この寺には、先に高子館を訪ねた時も来ていて、門前の石塔群が印象に残っていた。
今回伊達町の散歩をしていて、新たに気になったのが、文化財に指定されているという福巌寺六地蔵だ。
近頃の散歩で、時々六角石に出会う。伊達では、金秀寺の「伊達町指定有形文化財七角石塔」の脇に六角石があった。
本当は、七角石塔という七というのがよく分かっていない。素人には、この七角というのは引っかかっていて、なかなか受け入れ難い数だ。六角とか六地蔵とか六界というのはストンと入るのだが、……。
それはともかく、この六地蔵をみたかった。
気になった福巌寺六地蔵は、寺の正面にあった。
宝暦年間(1750~60年代)福巌寺法印亮誉の代の作とのこと。石塔の高さは3m、六面に地蔵尊が彫られているということで、昭47.3.13町の文化財に指定されているということだった。
案内板では、次のように説明する。
地蔵菩薩は釈迦滅後、次の弥勒菩薩がこの世に現れる間、生まれてくる人々の苦しみや悩みを救う菩薩として、造られるもので、六つの輪廻転生する世界「六道」に現れて、平等に救済する仏様を意味している。
福巌寺に安置されているこの六地蔵は、法印亮誉の代、宝暦年間(1750~60年)の建立と伝えられ、福巌寺の作とのこと。石塔の高さが3m50㎝、六枚の板碑は、縦90cm、横35㎝で、六面に地蔵尊が浮彫りされている。
そのすぐ隣に、福巖寺宝篋印塔が並んでいた。
宝暦13年(1763)やはり福巌寺法印亮誉の代に造られたとのこと。願主小野六衛門、石工信州(長野県)中村北原三左衛門の作で石造物として価値が高く、昭56.2.18町の文化財に指定されているということだった。
案内板では、次のように説明する。
宝篋印塔とは、もともと仏陀(釈迦)供養のために「陀羅尼経」を納めた塔で、鎌倉時代以降諸仏の供養塔、墓碑塔として一定の形式が成立したといわれる。
福巖寺宝篋印塔は、宝暦13年(1763) 法印亮誉の代、願主小野六衛門、石工信州中村(長野県高遠町)北原三左衛門と刻まれ、石造工芸品としても価値が高い。
長野県高遠町と聞くと、会津蒲生氏郷を思い出すが、年代が違うなとひとり言。
この寺の門を出て、右手には石橋がかかる。
この石橋の下は、箱石灘から延々とひかれてきた東根堰阿武隈揚水路がある。
その名残だ。