向瀬上愛宕山②~小野氏顕彰碑
2009年 06月 11日
向瀬上の愛宕山は、月の輪台から続く高台の突端でもある。
阿武隈川は蛇行の道筋を何度も変えるのだが、そのおさえ所であったとみることもできる。
また、西念塚に象徴される人柱となってまでも食い止めなければならなかった氾濫、洪水の摺上川との合流地点でもある。
それらにかかわって小野氏顕彰碑と疎水閘(こう)由来碑の二つの碑が建っている。
そのうちの小野氏顕彰碑は、水害を防ぐために個人的に石の堤を築いて川除を完成させた小野平次郎・トキ夫妻の功績を讃えるものだ。
夫婦が、明治10年から18年までの10年間に築いた石堤の高さは、2~5m、長さ140mに及んだという。胡桃川改修によって形跡はなくなったが、昭和53年12月顕彰碑が再建され、昭56.2.18伊達町史跡に指定されようだ。
小野平次郎顕彰碑にかかわって案内板が建ち、石堤の由来を解説している。
石堤の由来
今から百年前の阿武隈川は川幅こそ狭かったが、福島から荒浜までの上り下りの舟運にも利用され船頭泣かせで知られた。箱石瀬には竜神岩・風神岩など大小幾多の岩礁が立ち並んでいて河水は岩を噛んで激しく流れ、さらに支流摺上川の水も猪突するごとく合流していたので河水は常に渦を巻いて流れていた。
ここ箱石瀬の東岸に隠居の身をこの地に託して、一件の茶店を出していた小野平次郎とその妻トキの両名は、8年の歳月を費やして石堤を築いた物語の主人公である。
毎年雨季ともなれば河水は氾濫し、濁流は岸辺を噛んで侵食決壊もはなはだしく、時には田畑を洗う大洪水も度々のことであったという。夫婦は大水のあるたびのでき事に傷心やるかたなく、意を決して水害防備の築堤人々に提言した。だが誰一人として力になる者はなかったので決然として自力敢行に着手した。明治10年秋のことである。(年齢55歳)
夫婦の決意は極めてかたく、たとえ一日一個でも月に30個、年に360余個、一生かかれば何とかなるだろうと互いに語り合い励まし合い、朝に皇大神宮を遙拝し、愛宕権現に合掌し心願を念じつつ川底より石を拾い集め、積んでは集め、雨風いとわず築堤築造の勤行に励んだという。やがて50間近くも伸び、高さを3尺から2間ほどに積み上げることができたその頃、夜来の雨は大水となり漸く築いたその石堤は無残にも水底深く崩れてしまった。
二人は唯々ぼうぜんとしてしばらく佇むほかなかったということである。こんな事も一度ならず、二度三度と積んでは崩れ、崩れては積み、増水する度のことであったが、意志はますます堅く神に祈願をこめての作業であった。
三年目の秋のある夜のことである。夜床についたがどうしても寝つかれないので、仕事でもしようと提灯を木の枝に下げて仕事に取りかかろうとした時、愛宕山の方から法螺貝の音が聞こえてきた。その音がだんだん近くなりやがて白装束の修験者が現れて黙々働いている姿に、「もし、お百姓さんかお船頭さんか知らないが、この夜更けに何をなされますか」と声をかけてきたので、事の次第を話して聞かせたところ、その奇特な心がけにいたく感激し、また根気のよさに感服して修験者は諸国を旅するうちに聞き及んだ築石の技法を話してくれた。松杭と丸太を枕木として裏詰めに小石と粘土を固く詰めるようにと教え、闇の中に立ち去った。これぞまさに神のお導き去り行く後ろ姿に何度も合掌したという。早速、翌日から松木を切り教わった通りの方法で積んだところ、その後は大水になっても崩れることも流されることもなく、念願かなって漸く完成した時はまさに8年の月日を閲していた。
石運びに3隻の舟を使い壊し、1日1個の勤行尽くして完成した水害防備の石堤は、高さ1間及至2間半、長さ80間余にも及んだ。その後、幾度かの大水にも毅然として耐え抜き夫婦の強固な意思を物語る如く従耳 立しておったが、幾度かの河川改修により遂次石堤も取り除かれ現在は見るあたわずも、立派にその役割を果たしたものと追想される。
この碑は、夫婦の偉業を顕彰するため後日有志により建立されたものである。
昭和54年8月建
伊達町郷土史研究会