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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

信達大一揆義民齋藤彦内の墓へ

 国道沿いに「義民齋藤彦内の墓」への道案内があって、前から気になっていた。
 しかし、<義民>・<墓>という暗いイメージと、そこから<斬首>とか<さらし首>というイメージが重なって躊躇する感情もあった。
 ただ、宮代地区を巡ったときには、寛延2年(1749)の信達大一揆で結集した日枝神社に立ち寄っている。
 この信達大一揆では、長倉村の百姓総代齋藤彦内、伊達崎村の蓬田半左衛門、鎌田村の猪狩源七の三人が発起人となり、「わらだ廻状」を各村に廻し、騒動終了後共に伊達産ケ沢の刑場で斬首、さらし首に処せられている。
 その三義民のうちの一人猪狩源七氏の墓には、鎌田城の散策の折に鎌秀院で出会っている。そのつながりもあって確認したいという思いはあった。

 国見からの帰り道、とりあえず「義民齋藤彦内の墓」の位置を確認しておこうと思って案内板に従って進んでみた。
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 福源寺という寺にその墓はあるらしく、駐車場に「伊達町指定文化財 義民齋藤彦内之墓所」の案内板が建っていた。


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  寺には義民霊堂があって、その脇に、信達大一揆にかかわる絵が掲げられていた。


 一枚は、先に訪ねたこのとある日枝神社への結集の様子だ。
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宮代山王社にて密議
 寛延2年(1749)農民たちは、桑折代官所に何度も年貢減免の嘆願をしたが、逆に増税を言い渡された。憤怒した農民たちは、誰が発したか分からない廻状を各村々に廻し、もし留め置いた村は焼き払い、一命を申し受けるという厳しいもので、「村々百姓代の面々 来る2日の夜 子の刻を限り 信夫郡宮代の山王社地へ集合すべきものなり 両郡の百姓のため一大事の密議あり」と記され、伝達の速いことから、後に「天狗廻状」と呼ばれた。
 12月3日、朝より吹き荒れる風は、夜には静まり、音もなく降る小糠雪の中を、西より東よ、三々五々、宮代村(現福島市宮代)の山王社に集結し、百余人の百姓代は皆、雪蓑を脱ぎ捨て、拝殿の廊下に集い、年貢減免の強訴を取り決めた。
 廻状は焼却し、その灰汁を結束の証として廻し飲みしたといわれている。



 もう一枚が、騒動終了後、伊達産ケ沢刑場での斬首、さらし首に処せられる様子だ。
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 三義民 産ケ沢にて最期の勇姿
 宮代山王社での密議の取り決め通り、12月11日夜、1万680余人の「天狗廻状騒動」農民大一揆は、桑折代官所を取り囲み、強訴要求を受け入れさせた。
 桑折代官神山三郎左衛門と手代の土屋恵助は、一揆の首謀者を探すため、農民たちを次々と厳しく調べた。見かねた長倉村(現伊達町)の斎藤彦内は、すべての責任は我にありと自ら出頭したため、悶絶するほどの拷問を受け続けた。
 さらに彦内の苦しみを救おうと、伊達崎村(現桑折町)の蓬田半衛門(53歳)、鎌田村(現福島市)の猪狩源七(33歳)が自首し、過酷な拷問を受けた。
 3名はその苦しみに耐え、最期の一刻まで農民を救うため身代わりとなり、ついに最期は産ケ沢の川岸で斬首され、さらし首にされた。その時斎藤彦内は42歳、妻と3人の子供がいたのである。義民と云われる由縁である。
 斎藤彦内は当寺本堂裏に今も眠っている。



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 近くに、百ケ日供養の碑があって、その裏面が代官によって削り取られたとの解説があった。


 後で気がついたのだが、この時には、義民斎藤彦内の墓にはお参りしていなかった。その墓は、この寺の裏手だということだった。
by shingen1948 | 2009-06-06 06:03 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)