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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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斉川宿④~坂上田村麻呂伝説と共存する甲冑堂

 現況は、甲冑堂の再建に伴って、甲冑堂を中心に、それと関連のある田村神社が整備されるとともに、その傍らに桃隣句碑などが建てられ、周辺整備がなされたということのようだ。
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 田村神社の神社略記にもよれば、桓武天皇の延暦年間(800年頃)に斎川の人々が山中に潜む賊に苦しんでいるところを坂上田村麻呂が救い、また稲作の指導もしたため当地が平和で豊かな里になった。このため、里人が感謝して神社を建立し田村麻呂を神として祭ったという。
 神社は明治8年6月に放火により焼失するが、明治12年3月に再建されたとのことだ。


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 堂の傍らの蕉門桃隣句碑は、昭和14年12月3日に甲冑堂の再建を記念して建てられたとのことだ。
 桃隣は芭蕉の縁者で、芭蕉の死後の元禄9年(1696年)、「おくのほそ道」の旅をなぞって「陸奥鵆」を著わしたとのこと。碑にはこの時詠まれた「戦めく二人の嫁や花あやめ」の句が刻まれている。


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 そこから奥州街道を少し下ると、「鬼ずるす石」という伝説の説明がある。これは、田村神社との関連で整備したと思われる。

 坂上田村麻呂は、村人たちのために、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭などの鬼形の者たちを退治しにやってきたことになっていると田村神社のいわれにつなげて伝説を説明する。


 時代は違うが、甲冑堂の佐藤継信、忠信兄弟の妻は、都からの侵略者に逆の立場に立っている。都で討死してしまった夫の姿をまなび、老いたる人を慰めるという優しい心を醸し出す役割のようではある。
  対立する価値観が混然と一体化した風景が原風景で、その中から被支配者へ思いをはせていく想像力が求められる。







 「鬼ずるす石」案内板説明内容
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 岩倉山はその名の如くいたる所に岩の露出がみられるが、その岩の一つに別の岩が重なっていて、人の力で容易にガタガタと動かすことができる。さながら大きな石臼のように。
 昔、坂上田村麻呂の時代、この付近の岩窟に鬼形の者が住んでいて、人民や旅人をとらえてはこの石臼に入れ、引き砕いて食らったという伝説があって鬼ずする石の名がある。
 又、鬼が人を剥いだ沢を人剥沢あるいは人食沢と今も呼んでいる。
 鬼は最後に蝦夷征伐のため下向した田村麻呂将軍によって退治されたという。


 先の馬牛沼の案内版でも征夷大将軍坂上田村麻呂は、地元民の見方だ。
 9世紀の初め頃、蝦夷征伐に馬を進めてきた征夷大将軍坂上田村麻呂は、この地方にはびこる悪路王や青頭・赤頭などの鬼形の者たちに、苦しめられている村人たちのことを知った。そこで、田村麻呂は、斎が川で身を清め、鈴鹿明神の助力を得て悪者を退治した。
 村人はその徳を慕って、祀ったのが田村神社のはじまりと伝えている。

by shingen1948 | 2009-06-03 05:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)