地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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斉川宿③~甲冑堂

 甲冑堂は古くは、高福寺の一つの小堂としてあって、田村麻呂将軍もその中の一つとしておいでになっていたような感じがする。
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 甲冑堂について、半沢氏のメモでは、越王、古四王堂、小塩堂、古将堂、将軍堂、越河堂……の変化したものとみているようだ。
 越王というのは、越の王で阿部氏の祖大彦命とされ、新潟、山形、秋田、青森、岩手に多いという。
 越王の伝説から、田村麻呂の伝説へ、そして継信、忠信の伝説へとつながったという変遷と見るようだ。
 曽良日記では「次信・忠信が妻ノ御影堂」だ。

 「甲冑堂」で検索すると、泉鏡花の「一景話題」がヒットする。そこでは、橘南谿の東遊記の「甲冑堂」を以下のように引いている。
 橘南谿の東遊記に、陸前国刈田郡高福寺なる甲冑堂の婦人像を記せるあり。奥州白石の城下より一里半南に、才川と云う駅あり。この才川の町末に、高福寺という寺あり。奥州筋近来の凶作にこの寺も大破に及び、住持となりても、食物乏しければ僧も不住、空き寺となり、本尊だに何方へ取納めしにや寺には見えず、庭は草深く、誠に狐梟のすみかというも余あり。この寺中に又一ツの小堂あり。俗に甲冑堂という。堂の書附には故将堂とあり、大きさ僅かに二間四方許の小堂なり。本尊だに右の如くなれば、この小堂の破損はいう迄もなし、ようように縁にあがり見るに、内に仏とてもなく、唯、婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置せり。
 これ、佐藤継信、忠信兄弟の妻、二人都にて討死せしのち、その母の泣悲しむがいとしさに、我が夫の姿をまなび、老いたる人を慰めたる、優しき心をあわれがりて時の人木像に彫みしものなりという。

 江戸時代の甲冑堂は、高福寺という荒れ果てた僧も不住で、御本尊様もない空き寺の一つの小堂としてあって、唯、婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置されていたという風景だったようだ。
 その像も、明治8年に焼けてしまって、現在の像は、継信、忠信の妻の話が国定教科書高等小学校読本でとりあげられたのをきっかけに、昭和15年頃に、宮城の彫刻家小室達氏によって造られたものだそうだ。

 現況から、奥の細道をイメージするには、ここが荒れ果て廃屋になった寺地で、そこに朽ちかけた小堂があって、その中に……。ということのようだ。
 それを、芭蕉は医王寺に、この婦人の甲冑して長刀を持ちたる木像二つを安置してイメージし、こうあってほしかったと思ったのではないのかなと勝手に思う。
by shingen1948 | 2009-06-02 05:47 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)