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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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斉川宿へ足をのばす

 「阿津賀志山防塁」現地説明会の後、ついでに斎川宿まで足を延ばした。ただ、今回は車でポイント的に確認しただけではある。散策は、歩いたり、せいぜい自転車でゆったり、のんびりとした気分で楽しみたいものだ。いつかこの辺りを歩いて散策したいとは思う。

 とりあえず甲冑堂を確かめたかった。
 福島県北の芭蕉を解説するのに、多くは国見を越して、県境から越河宿あたりで終了するようだ。しかし、医王寺のイメージの中に、この甲冑堂のイメージを張り合わせているようなのだ。
 芭蕉が、医王寺で見たとされる佐藤継信の妻「楓」像、佐藤忠信の妻「初音」の像は、実際は、この斎川の甲冑堂に祀られている二人の嫁の像だと言われているとのことだ。位置的には遠く離れているのだが、芭蕉の文学的イメージとしてこの像を医王寺で描きたかったということのようだ。
 曾良の日記では、わざわざこの斎川の甲冑堂に寄ったことが記されているということで、ポイント的にでもここを訪ねておかないと落ち着かないのだ。
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 この地点にたどり着く前に、馬牛沼がある。
 曾良の日記でも、「斎川より十丁ほど手前に馬牛沼と万牛山がある。」と、この沼の脇を通って、斎川に入ったことが記されている。
 ここに案内板が建っていて、この沼のこと、近くの舘のこと、そして斎川宿のことが、説明されている。

 この沼については、呼称が「馬牛沼」となったいわれについて説明している。
 それによると、9世紀の初め頃、征夷大将軍坂上田村麻呂の馬がこの沼に落ちて死んだので「馬入沼」としたとある。その他の言い伝えとして二つ紹介する。
 ① 沼の中の孤洲が馬に似ているので「馬形沼」としたという言い伝えもある。
 ② この沼に馬首牛身の魚獣が泳ぎ回っていたので「馬牛沼」と名付けたなどの謂れもあるとのことだ。
 また、この沼は、明治30年頃から鯉の養殖場になって、晩秋の「沼乾し」の行事には、多くの人で賑わうこと、湖中には鯉供養碑が建つことが説明されていた。


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 ここから先の馬牛館の説明もある。
 実際の登り口は、4号線沿い茶屋のところで説明はない。


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 この山の登り口かなと思う方向は、工事中のようだった。

 「馬牛沼」にあった案内板の説明によると、馬牛館は、戦国初期頃に築かれ、天文年中(1542~48)の伊達稙宗・晴宗父子争乱の頃は、桑折播磨景長が籠って戦ったとの伝承があるとある。


 この桑折氏は、伊達家3代伊達義広の長男親長の系統で、伊達郡桑折を領していた。播磨景長は、天文の乱で中野宗時と伊達晴宗に働きかけて、実元の上杉家入嗣を阻止させたといわれている。晴宗方参謀であり、晴宗を奥州探題にするとともに、自らも守護代になっているとのこと。

 奥州街道は、ここから国道4号線から右手の旧国道4号の道筋に重なる道筋にそれて斎川宿に入る。
 カテゴリーを「芭蕉の足跡」に変える。
by shingen1948 | 2009-05-31 05:28 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)