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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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阿津賀志山防塁」現地説明会 ④

発掘現場の周りの阿津賀志山防塁の様子と官道の位置関係について整理しておく。

 阿津賀志山防塁は、文治5(1189)年の奥州合戦で、平泉の藤原泰衝が源頼朝率いる鎌倉軍を迎撃するために築かれた全長約3・2キロの二重堀だ。
 第1次発掘調査は昭和45年に行われ、防塁が国指定史跡になっているという状況で、今回の発掘調査が行われているようだ。
 そして、今回の発掘調査地点は、4号国道東側の旧国道付近で、森山字東国見と西国見にまたがる平場ということになる。
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 この図は、説明会で配布もされたもので、今までに調査されている近くの土塁や堀との位置関係が分かる。
 道路で分断されているが、東の方からここまで二重掘りの防塁がのびてきている。
 一番右側のラインが伸びているが、これが現況では一段高くなるラインだ。
 第一トレンチとある辺りの道が、ほぼ土塁の縁だ。

 第一トレンチとある辺りから、土塁と現況の一段高くなっている縁の間が、広くなって西側に続く状況がみえる。この間が、官道が通っていた候補ラインのようだ。
 今回の説明では、無かったが、一番右側の一段高くなるラインは、その北側の高台をとりかこんでいる。


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 ここまで延びてきた防塁の北側の堀の様子。北側の高台の縁に沿った掘りとも重なる。
 右側の道が土塁の上だ。


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 先の堀の右側の堀の様子。


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 土塁の上の路の東側から、今年度発掘されている現場の方向をみる。右側が高台平場。


 整理すると、次のようなことだろうか。
 国見町の阿津賀志山防塁は、平安末期、源頼朝と平泉の奥州藤原氏との戦いで、最大の激戦地となったことで有名だが、ここが、防塁の木戸口。
 ここを木戸口としたのは、ここを古代の幹線「東山道」が通っていて、その道をここで埋めて遮断したということ。
 当然、万を超える大軍がまとめて移動できるルートは東山道しかなく、中心の隊はこの道を進んできているはず。
 藤原方は、ここを封鎖することで鎌倉軍の進撃を食い止めようとした。
 したがって、ここが激戦の中心的な位置となったはず。藤原軍も多くの人員をここに集結しただろうことが想像できる。

 今回の調査で、二重堀と土橋、平場、曲輪(くるわ)などが複合的に造られて要塞機能を果たしていたという周りの状況が明らかになったということのようだ。
by shingen1948 | 2009-05-28 05:53 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)