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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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北矢野目城⑤

a0087378_514140.jpg 地図に、得られた資料からイメージした北矢野目城跡を表示しておく。
 
 そこに、各道路を重ねて表示する。これは、この地区の方々にとっては、便利さを手に入れていく開発の歴史でもあり、逆に、城跡を削り取っていく歴史でもある。


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 矢野目横貫道路開通が、大正12年に、鎌田から笹谷まで開通した。現在の農面道路の原型で、その記念碑は、昭和6年に建てられた。


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 学校道路は、大正7年(1918)通学路として、向原と学校への道ができた。その記念碑が萩の目踏切近くにある。
 その延長に、昭和7年(1932)矢野目からから下飯坂までの村貫道が開通されたようだ。撮った写真を削除してしまったが、その記念碑と思われるものが北の方にあった。

 農免道路は、昭和40~42年(1965)に開通、東北新幹線57年開通、阿武隈急行昭和63年開通と続く。


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 ここの堰記念碑は、矢野目堰の記念碑だが、この記念碑は、出水時溢水の放出水路を作った時の碑で、8.5水害の後、河川改修時にこの放水路を耳取川として、その上流を矢野目堰へあわせて耳取川としたことを記念したとのことだ。
 この矢野目堰ができる前は、栗本堰(耳取川)に頼っていたが、下流にあるため、常に水不足に苦しんだ。
 延宝2年(1674)御山村、南北矢野目村、北沢又村の4村が組んで、御山村の名主白坂茂兵衛が代表で、費用を負担する自前普請の堰割工事を願い出て許され、左京堀、柳堀、清水落水をあつめた矢野目堰を造り上げてやや緩和したとのことだ。
 それでも南沢又農民が勝手に新田を開発して分水し、ここでも例にもれず水争いがあって、昭和の半ばまで、水番小屋を集会所に設けていたということだ。
 先に矢野目堰を散策して整理したときに見た記念碑は、この4村が組んで堰を造ったことに対する記念碑で、代表の白坂茂兵衛を称えているらしい。
by shingen1948 | 2009-05-23 05:29 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)