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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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北矢野目城④

  この辺り、何度か歩ったが、その時に養福院観音堂は見逃している。
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 舘町集会所に、信達準坂東第7番札所北矢野目養福音観音「たのみきた、やのめのこころ、すくならば、むこうたいひの、まとははずれず」と石柱に案内がある。
 拝殿が、集会所と一体化したらしい。
 道路元標が、この入口へ通じる道のわきにあったらしいことなどから、明治期には、ここが何らかの役場的な機能があったのではないかと想像するが、よくは分からない。
 「ふる里矢野目の歴史と伝承」によれば、養福院の本堂は、明治14年から矢野目小学校として使われたが、43年に移転して取り壊されたと紹介する。とりあえず、学校という機能はここだったらしい。

 この養福院の創建については、村の成立と前後して、この地域の有力者の資力によって建立されたはずだが、伝承も資料もないという。
 古老の言伝えでは柳町の真淨院住職の隠居寺であったというが、その墓碑がないともいう。
 供養塔の法名から修験道の山伏を推定する。江戸時代には無病息災諸願成就を祈祷して布施で生活する山伏がいたと推定しているようだ。
 なお、館の主の福地帯刀は慶安3年(1650)に死去し、瀬上の浄土真宗台巌寺から法名が送られているとのことだ。


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 ここに、この辺りの石塔等が整理されている。天明3年の餓死地蔵は、半沢氏のフィールドワーク地図にもある。この辺りでは、よく知られているらしい。


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 石柱には以下のような解説がある。
宝暦、天明の大飢饉に子の飢えを守り餓死した親や多数の人々を憐れみ建立された。かほどに愛の姿はない。偉大なる祖先を誇りとし、公園竣工と地蔵移転に因み碑に標すものである。

 「ふるさと矢野目の伝承」では、そのことを紹介した後、右側の小ぶりの地蔵について触れ、中央の地蔵は、養福院の住職「是幸有道上座」という方の供養碑であることが台座の銘からはっきりしていることを紹介する。
 この地蔵が、餓死を供養するとされるのは、一つは、「天明3年9月建立」との文字であり、もう一つが、地蔵が両手にかかえた丸い玉である。この玉が餓死者へ供えたおにぎりだといわれてきたという。
 天明3年については、天明の飢饉が始まった年であること、両手でささげる丸い玉は宝殊か薬壺だろうと推定されることを紹介している。
 憐れんで「餓死地蔵」が創建それたことには疑問を呈しながらも、人々が餓死した方の冥福を祈ってこの地蔵に手を合わせてきたという心がこもった餓死地蔵とみる。人々の心の真実を思いやる姿勢に、故郷を想う心のありようを学ぶ。
 周りの景色の変化でよく分からないが、よく村の入口にある六地蔵にも見える。その信仰心がよく残っているところとも感じる。
by shingen1948 | 2009-05-22 06:33 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)