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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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笹谷近郊の館(笹谷城・勘次郎館・仁井館)

 信陵公民館前に掲示してある地図をたよりに、笹谷城、勘次郎館を探したがみつからなかった。
 とりあえずマホロンの検索データと現況の地図を見比べて、おおよその位置を推定してプロットして整理しておく。
a0087378_6214263.jpg
 笹谷城と勘次郎館は別の舘で、地図上ではこのような位置関係になるのではないかなと思う。
 マホロンの検索データには、笹谷城と勘次郎館の他にもう一つのプロットがあるのだが、これが何の遺跡かはまだ分からない。
 ここに阿部薩摩の墓もあるのでのその位置もプロットしておく。
 信陵公民館前の地図にあった阿部薩摩の墓と勘次郎館を挟むべき位置にあるという道標も、まだよく分からない。
 ※ おおよそマホロンのデータに従ったつもりだが、データでは勘次郎館の住所が舘屋敷になっている。しかし、笹谷にはその住所はないので、地図の読み取りを優先して、上屋敷へのプロットとした。


a0087378_6225655.jpg
 実際の位置関係では、共同墓地の中を走るこの道が、元々ここにあつた道であるということが認知できなかったことによる迷いだったと思う。この道の左側が笹谷城ということのようだ。


a0087378_625925.jpg
 この道を進んで左手を見ると、プロットされていた位置だと思う地点は、先に散歩した時に石碑群があることを確認した位置のようだ。


a0087378_6261475.jpg
 そのまま道を進んで、果樹園の中に何となく右手に道があるような気がする所を進と、勘次郎館としてプロットした位置と思われる所に出てくる。


a0087378_6265976.jpg
 その館を挟んで愛宕神社がある。

 この二つの館については何の資料もないが、北矢野目城が、地頭など地域の有力者の館ではないのかなと想像するように、ここもそのような館の小規模なものと勝手に推測する。


 仁井館については、信陵公民館前の地図で示す位置と、館跡として標柱を立てている位置が違う。明らかにこれは一致させて表示しておくべきだと思うことなので以下のように表示させていただく。
a0087378_62817100.jpg


 5/16河北新報は、喜多方市の中世の会津新宮城跡が、国史跡に指定されたことを伝えている。
 新宮氏は、鎌倉時代末期に地頭となり、後に戦国大名となる葦名氏と14世紀末から、度々争って15世紀前半に滅ぼされたとのこと。
 城跡は、四方に内堀を巡らせ、東西100~120m、南北120~130mの武士の館で、外堀は、天然の小河川と人工の堀によって、東西約480m南北約440mとのことだ。発掘調査で、「かわらけ」が多数見つかったともある。
 指定のポイントは、以下の3点だろうか。
① 関連する文献史料が存在し、当時の具体的な状況がうかがえること。
② 規模が大きいこと。
③ 全体の保存状況も良好であること。

 散歩人としては、存在していたらしいという情報しかない規模の小さな笹谷城・勘次郎館・仁井館のような館の想像を膨らませるための情報にはなりそうだと思う。これら確実な情報から、規模を縮めて類推して、この地域の有力者のあこがれのようなものを想像してみる。
Commented at 2010-03-31 19:03 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by 果樹園のおやじ at 2010-03-31 19:39 x
え~と、、、地元民ですが、、、
笹谷城なる遺跡は聞いたことがないのですが・・・。

場所が笹谷字道本林なら・・・、その道を西に進み高速をくぐった先に「大神宮」という神社があります。
そこも字道本林ですから、、そこかなー??

で、道標=二十三夜様の石碑はその道沿いにありますよ。
小さいから見つけにくいですけどね。

で原林遺跡っていうのもあるようなのですけど、、。
これは名前だけで謎です。

場所は知っているのですけどね。
遺構は何もないですよ、これも。
Commented by shingen1948 at 2010-03-31 21:22
情報ありがとうございます。
西の畑ですか。
 勘次郎館跡は、マホロンの遺跡検索では「笹谷字館屋敷」で、原林遺跡の北東、笹谷城が原林遺跡の南東にプロットされていて、原林遺跡が一番西側で、高速道路の東側にプロットされているようなのですが、……。
 原林遺跡は、マホロンの遺跡検索では、奈良平安の散布地で確認できました。
 平安か奈良時代の何か遺物が出土しているのではないでしょうか。
 地元の方の言い伝えどおりに、登録されていないのでしょうかね。
 この辺り、まだ確認できないでいます。また教えてください。
Commented at 2010-04-01 12:57 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2010-04-02 11:31
阿部薩摩の墓を固定して、全体的な想定が、南西に移動するイメージのようですね。
 プロットされた地図と原林遺跡との位置関係を考慮すると墓地と西側の果樹園あたりが笹谷城の感じですがどうでしょうか。

 昨年このあたりを散策しておこうと思ったのは、「天地人」のドラマにかかわって、新しい情報が入るかも知れないと思ったからです。
 そう思ったのは、阿部薩摩にかかわる開村が、李平宿、土湯温泉村、そして、この辺りということ。そして、阿部薩摩氏にかかわる親族の方は、他所に越されているという情報はありましたが、近くの神社に上杉家臣団の記載があったことです。
 耕地を伴う開村は、ここだけなので松川にかかわる3つの堰も、区別できるようにしておけば、すぐ楽しめると思っていました。

 気になっているのが、笹谷という呼称で、ここは、いくつかの村が合併して笹谷村になっているはずで、情報として新しいのかなと思っています。
 
 残念ながら、新たな情報はありませんでした。
 旧一ノ堰にかかわるであろうと推定した水神が、栗本堰の案内になってしまったことも残念な思いです。


Commented by 果樹園のおやじ at 2010-04-02 11:39 x
えーと、私の知りえる限りの情報を書き込みしてみます。
お役にたてば・・・・。
長文になりますのでご容赦。

現地は東北中央自動車道福島ジャンクションが建設中で、その計画説明会のおり、勘次郎館、笹谷城、原林遺跡の登録場所が示された地図をみることができました。
それをもとに、土地の所有者および勘次郎館の遺構を知っている長老たちと遺跡について話し合いをしたことがあります。
このときの内容を簡潔に記し、私見をちょっと・・・。
Commented by 果樹園のおやじ at 2010-04-02 11:40 x
1、地図に示された場所。(登録上か?)

勘次郎館 字上屋敷地内の「上屋敷」という屋号を持つ由緒あるお方の宅地。
笹谷城 字原林地内、かつて遺構があった場所。(西の畑)
原林遺跡 字原林地内、↑より西に数十m西。
Commented by 果樹園のおやじ at 2010-04-02 11:41 x
2、話し合いでの意見

上屋敷御主人の話によりますと、自宅が遺跡であることは一切聞いていないと言っておりました。また、勘次郎館とはあの堀のあったところを指すとも言っております。
これは、他の人も同意見でした。

原林遺跡は解らない、、と口をそろえています。
もともとは鬱蒼とした林であったとのことです。

笹谷城とは聞いたことがない、とこれも意見が一致しております。
また、笹谷という地名は明治に入って下大笹生村と大谷地村が合併した際に新たに作った地名で歴史あるモノとは思えないのだそうです。
Commented by 果樹園のおやじ at 2010-04-02 11:42 x
3、これから私見。

私はかつて遺構が残されていた原林地内の遺跡が正しい「勘次郎館」と思うのです。
それが登録時に「地元の有力者の屋敷=館」と勘違いし、誤って「字上屋敷地内の屋号上屋敷さんのお宅」が「勘次郎館」となってしまったのかな、と。

ところがそれでは、あの堀遺構はなんだ??となり、つまり正体不明の遺跡となり「笹谷城」とでも名付けておけ・・・。と。

また、原林遺跡は林を開墾した際にに何か出土したのかな・・・ですね・・。

笹谷城の住所は字道本林となっておりますが、字道本林は
字原林のさらに西です。
遺跡らしいのは「大神宮」さまだけですよ。
高速道路が開通する前も知っておりますが、そこにも遺跡らしいのは、、ですね。
Commented by shingen1948 at 2010-04-03 05:48
 情報ありがとうございます。
 いただいた情報から、散歩人としては、平安~鎌倉時代の荘園村落と戦国時代の草分け農村のようなものを感じました。
 専門家は仮説の段階では、何も言わないようです。

 ○○と地域に個人名が残るのは、一般的には、荘園村落と判断するようです。台地や谷あいに多いといわれています。
 これに、原林遺跡に掘の遺構があって、これを専門家が、平安の遺構と判断しているのではないでしょうか。

 そして、ここが、一般的には上杉の阿部薩摩が開村したといわれているので、その歴史が積み重なるはずです。
 一般的には、村落の結束を固めるための行事や言い伝えが残ると考えられているようです。

 今回、探していた痕跡はこちらです。
 堰は、全部改良されてつながってしまいましたが、元々の堰跡を探りたかったのは、後者の村落の痕跡を探ろうとしたからです。

 こちらの御方は、他所に移動されたようですが、「天地人」のブームで、何かが出てこないかなぁと期待したという散歩人のたわごとです。
Commented by 果樹園のおやじ at 2010-04-03 12:52 x
どうもです。

真、勘次郎遺跡(=笹谷城?)の果樹園に9尺の脚立を立て、そのてっぺんに座って景色を眺めると違った感想になるかもですよ。

当地は松川扇状地の中央部で水の便が非常に悪い土地です。
用水が整備される以前の「農業」は考えにくいですよ。

私が脚立のてっぺんで夢想することは・・。
平安末、、信夫の里は動乱・・・ですね。

意外と見晴らしがいいのですよ、そこ。
Commented by shingen1948 at 2010-04-03 18:00
 違いますか。

 「二郡村誌」を確認していたら、「古跡」として、「古城跡」が記載されていました。
 笹谷村の南部「道本林」にあって、東西80間・南北75間で、壕や塁が認められるというような感じ。これが、笹谷城でしょうか。
 原林遺跡あたりにあるという掘りは、これとセットでしょうかね。

 勘次郎館は、これとは別のような気がします。

 なお、「二郡村誌」で、「阿部薩摩の墓」は、上屋敷にあるとありますが、これはそのままでいいんですよね。
 
Commented by おやじっす at 2010-04-03 19:06 x
えーと、、阿部薩摩のお墓は字上屋敷です。

墓地と果樹園の境が字堺で、それより西が字原林です。
その先、笹谷南部果樹農業協同組合事務所脇の市道が堺で、それより西、大神宮さままでが字道本林っす。

私が市土木課さんより見せてもらった地図によりますと、阿部薩摩のすぐ西に「笹谷城」が描かれていました。
つまり、我々地元民が「勘次郎館」と称してかつて堀等の遺構が残されていた場所です。
字道本林ではなくて字原林にあるのですよ。。その地図おいても。

なんか全てめちゃくちゃでしょ。
Commented by おやじっす at 2010-04-03 19:07 x
また、上記の地図によりますと「勘次郎館」は字上屋敷にある民家の敷地内にあるのですよ。
そこに住んでいるご主人でさえ、阿部薩摩墓の西が「勘次郎館」と言っているのね。
「なんでおらいが遺跡なんだ??そんな云われはないし・・。そんなに古い家系でもない・・。」
って首をかしげていました。

また「原林遺跡」は全く別です。上記事務所の裏手です。

はっきり言えば、登録してある事実と我々の認識がめちゃくちゃなのですよ。
その上、遺跡の痕跡はすっかり消えており、全ては私たちのかすかな記憶のみなのです。

ですから、謎の遺跡なのですよ。
実際、「文書に記されているのが全て正しいとはいえない。」との好例かなと思います。
Commented at 2010-04-03 19:11 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by おやじっすw at 2010-04-15 12:16 x
ちょこっと情報追加です。

私のご先祖様がこの地に入植したとき(明治期)は、この笹谷城とされている堀、土塁の近くに家を建てたんですよ。

で、当時の我が家の屋号が「勘次郎」っていうのです。
勘次郎館の脇、、という意味なのですよね。

で、なぜか現在「勘次郎館」と登録されている家の屋号は「上屋敷」でして。。。。

このあたりからも「(真)勘次郎館=笹谷城」が浮かんでくるかな。
Commented by shingen1948 at 2010-04-15 17:13
 情報が混乱している理由が、想像できそうな気がします。勘次郎というような個人名がつく場合、一般的には荘園村落が多いのでそう判断したのでしょうね。
 それで、古くからの集落をそこと推定したのではないでしょうか。
 
 頂いた情報から、阿部薩摩の墓の西方20mの果樹園が、「二郡村誌」に「古跡」として紹介する古城跡であり、マホロンがいう笹谷城であり、地元の方が言う「勘次郎館ということなのでしょうね。
 頭の中を整理した後で、もう一度散歩してみようと思います。
 ただ、誤解を受けるのが嫌なので、果樹が実る時は避けるようにします。
Commented by おやじおやじww at 2010-04-15 19:47 x
そのときは案内しますよん
Commented by shingen1948 at 2010-04-18 14:00
 その時は、よろしくお願いします。
Commented by おやじおやじw at 2010-04-24 18:12 x
えー、近所の物知り爺さんを取材してきますた。

なんでも原林遺跡がまだ林だったころ、雪室(遺構としての)があったようです。
これかなーと。

で、勘次郎館とはこの雪室跡も含めてこの高台一帯を言っていたそうで・・・。

東西80間・南北75間の古跡も、、まんざら、、なのかもですよ。

で、昭和20年代に止めの埋め立てをやらかした、私の親父様を尋問したところ、、おもしろいものを見つけました。

散歩にお出での際、お見せできそうです。
Commented by おやじが本を探す at 2010-05-04 12:26 x
どもども、。

地元学習センターを捜索したところ以下の書籍を発見しました。

昭和49年11月20日
笹谷小学校創立百周年記念実行委員会発行
笹谷小学校創立百周年記念誌「笹谷小学校百年のあゆみ」
付録「笹谷のむかし」 5ページより引用

勘次郎館跡
字原林にあり、勘次郎館(正しい文字は不明)といい、現在字上屋敷共同墓地のある西側一帯の高台のようなところにあります。
(中略)
林の中の雪室(雪を貯蔵したところ)の跡も大正初期まで残ってました。

引用終り

勘次郎館跡とは原林遺跡を含めた広い範囲を指すのかもしれません。
ただし、雪室は昭和初期まであったそうです。(近所の歳より曰く)
Commented by shingen1948 at 2010-05-05 10:22
 情報ありがとうございます。
 「笹谷小学校百年のあゆみ」は、目を通したことがありましたが、その情報を見逃していました。
 当時、各学校の百年史編集は、相当に力を入れて編集されたもので、地域の歴史を掘り起こした功績が大きく、信頼できる情報ですよね。
 多分、ここでは、派手さはないけど、地道に地元の歴史に取り組んでいらっしゃった野地氏がかかわっていたと想像しています。
 雪室の情報も面白いですね。信夫山の黒沼神社裏、岳温泉神社裏の氷室と同じような使用法でしょうかね。
by shingen1948 | 2009-05-18 06:38 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(22)