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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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芋殻館

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 赤川筋温泉を更に進むと、丸くてきれいな形の山が背景にあらわれていることに気づく。赤川の橋の写真にもこの山が背景に映っていた。
 これが、芋殻館だ。

 この辺りを散歩していて、歴史的に何かがありそうだと思うのは、湯野の愛宕山公園あたりで、今回もその北側の奥まですすんでみたが、その更に奥の位置になる。
 「ふくしまの歴史」によると山頂が館跡らしい。
 南北40m、東西15mの平場とのことだ。山の神の祠があって、芋川主膳と書かれた木札があったという言い伝えがあるとのことだ。


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 登り口は、茂庭への道から切り立った岩に沿って登る西口もあるという。
 多分、切り立った岩が見える手前が山際の路になっているようだ。これを指しているのだろうと思う。

 途中で引き返した愛宕山から尾根つたいに登る南口も紹介されている。
 北西方向にも登り口があるらしい。それが虎口とのことだ。
 いずれにしても、どの道も整備はされていないので登るのは難かしいらしい。その分保存状態はよいらしい。

 飯坂湯野温泉史では、佐藤基治の家老芋川主膳の芋殻館としている。文治5年(1189)の役では、城兵が山の中腹に芋殻を連ね大兵がこの山を守っているように見せて撃破したとの伝説があるとも紹介する。
 大鳥城が牙城、五郎兵衛館が前哨址、この芋殻館が搦手だったと見ている。

 「ふくしまの歴史」で、「飯坂湯野温泉遊覧案内」に、文治5年(1189)にこの館も攻め落とされた後、建武年間(1334~36)北畠中納言の支城を置いたとも、茂庭周防守が、関門としたという伝えもあると紹介する。
 「飯坂湯野温泉史」では、この建武の戦いにかかわって、南朝方の子孫が穴原付近に永続して、楠、畠の両姓を襲う者数多くあると付け加える。

 「ふくしまの歴史」では、二つの別説も紹介する。
 「信達一統志」では、佐藤氏の家臣杉田刑部左衛門が居住したと伝え、「伊達二郡村誌」では、基治の一族畠刑部左衛門が、居住したと伝えるとのことだ。
 いずれにしても、佐藤氏の家臣が守った館とのことだ。
 更に、この館の東の風越しには、天文年中(1532~55)伊達勘五郎歳宗が居住したと「信達一統志」にあることも紹介する。
 
 この山の裏側は、先に整理した西原廃寺跡のあるところでもあり、更には、飯坂湯野温泉付近図によると、茂庭から薪炭を運ぶ電気索道があったらしい。この辺り、散歩するのにまだ奥が深そうだ。
Commented at 2015-01-28 16:40 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2015-01-30 17:38
F氏とは、「平野の伝承とくらし」のかかわりでお会いしましたことがあります。前歴は知りませんでした。
by shingen1948 | 2009-05-17 06:12 | Comments(2)