真鍋嘉一郎と、ラジウムと、夏目漱石と……②
2009年 05月 12日
明治33年(1900)東京帝国大学医科に入学、青山胤通教授のもとで内科学を専攻、ベルツらの薫陶を受ける。
明治37年(1904)卒業の頃福島県・飯坂温泉、兵庫県・城崎温泉の放射能を測定し、飯坂温泉で日本ではじめてラジウムの存在を確認して、飯坂の名は世界的に知られることとなった。
その飯坂ラジウムのいわれとかかわるラジウム卵をお土産にする。
箱はいらないというと、パックに詰めていただき、箱代を安くしてもらえた。
夏目漱石とのかかわりでは、中学で漱石に学んだことと、21年後、漱石の臨終に立ち会ったということのようだ。
「松山の中学で漱石に学んだ」ということに関して、次のようなエピソードが有名らしい。
級長をしていた5年生のとき、新任の英語教師・夏目金之助(漱石)に、十分に下準備をしてきた真鍋が「先生の訳は間違っています。」と理由をあげて指摘したが、「漱石は、それは辞書の誤りであり、著者の誤りだ。本と辞書を訂正しておくように」といって講義を進めたとのこと。
中学時代から秀才の呼び声高かった真鍋氏も、生徒の先頭に立って教師に意地の悪い質問をぶつけていたという。教師の側はもてあますことが多かったという経緯の中での出来事らしい。
「朝日コム」に、伊予の松山中学に赴任した漱石の講義の様子を真鍋嘉一郎の伝記で紹介する記事があった。(孫引きです)
「夏目先生は … 教壇に上ると机に頬杖(ほおづえ)を突いたまま右の手に持った鉛筆を振り振り通りのいい静かな落着きのある声で講義をしていかれ、しかも何ともいえない、しめやかな、美しい言葉を使われるので、いつの間にかその講義の中へ引っ張り込まれてしまったものだ。… 言葉ばかりか、文章の解剖までして、シンタツキスの説明がやかましい。ムードの使い方はいうまでもなく、このアドヴァーブはどういうわけでここに置いてあるかなぞと来る。そんなふうで一時間に三行か四行しか進まず、一年間に四章くらいしか済まなかったものだが、その代わりによく頭脳へ入る。英語というものはこんな物かと、初めて解ったような気がした。」
実は、部屋に「漱石先生ぞな、もし、」(半藤一利著)という本を広げてあった。この著者は、夏目漱石氏の外孫のつれあいという立場の方らしい。この中に「辞書の誤りを直しておけ」といったというエピソードに関する記述があったが、気が付いていなかった。ここでは、松林虎次氏が質問した話として登場してくる。
点としていろんなことを情報として持っていても、それが結びついていなかったということだ。これらが結びつくと、親しみの気持ちが増す。
飯坂温泉に調査に来て、どこかに宿泊したのかなとか、どこから試料を採ったのかなとかいろいろ想像が膨らむ。