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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥の細道を探る⑪~月の輪から瀬上宿

 ここが瀬上の渡しあたりの堤防で、向こう岸に「瀬上の渡し碑」が見える。
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 今回は、文知摺観音に立ち寄った松尾芭蕉が、瀬上宿から奥州街道を横切って医王寺を目指す道筋をママチャリで往復したが、その折り返し点を瀬上の渡し付近と決めた。
 当時の阿武隈川を月の輪の渡しで越した芭蕉は、現在の阿武隈川の瀬上の渡しから月の輪橋の間あたりから瀬上宿をめざしたのだろうか。
 奥州街道は南北に走る。だから、ここから瀬上宿をめざすには北西に進めば、どこを進んでも奥州街道には引っかかるという気安さがある。


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 ここから直接降りる道はない。月の輪橋まで戻る。


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 内池醸造の工場を越す辺りの道路は、まだ古い面影を残す。


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 適当に、桃畑の中に入って進むことにする。


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 阿武隈急行の瀬上駅あたりにたどりつく。


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 そこから、今回はこのあたりに出てきた。


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 瀬上宿を少し歩いて見て、宮代に入っては先に訪ねた宮代館土塁や八幡神社などにももう一度立ち寄ってみたり、休んだりしながらのんびり進む。


 これからの散歩コースを考えるのに「ふる里矢野目の歴史と伝承」(久間木忠雄著)に目を通していたら、「史跡足守藩陣屋跡」について触れている所があったのでその情報の概要を整理しておく。
 分領の領主は豊臣秀吉の寧々の実兄木下家定に始まる木下氏だ。
 秀吉に取り立てられて姫路2万5千石を所領していたが、関が原で中立の立場を取ったため、慶長6年(1601)石高はそのままで備中国足守(岡山市足守町)へ移封になる。
 その後、長男勝俊と二男利房2代目相続争いでお家断絶になるが、寧々の口添えか、元和元年(1615) 利房に旧領復活になる。
 瀬の上陣屋は、寛政12年(1800)10代当主利微(としよし)の時、信達2万2千石と旧領に3ケ村の領地となる。旧領だったところは幕領になる。
 所領の大部分は信達だが、それでも足守に住み続け、代官を派遣していた。幕府には旧領再転封運動を繰り返し、天保2年(1831)15ケ村旧領備中・信達12ケ村で願いがかなうという事情があったという。

 信達地域は、地力が乏しく、与えられた者にとっては魅力のない土地であり、大きな流れでは、幕府はこの地を私領として与え、肥えた地力の場所を天領に交換していくことで、実質的な幕府の増収が期待できるということに利用される地域であったということのようだ。
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-05-09 11:17 x
瀬の上から伊達は昔の街並みが残っていますネ。
旧道沿いは開発されずに寂れた感じはしますが、懐かしい街並みは大事な遺産のようにも思います。
昔の宿場なんかは地域では水の便が良く、風が弱く、温暖な感じがするところですけど、今の時代は大きな平地へ町が移ってしまっているので、開発されずに残ってるのでしょうか。
Commented by shingen1948 at 2009-05-10 07:13
宿の機能的な役目を終えて、ゆっくりとした時間が流れているのでしょうね。ここらあたり商人文化を大切にしたり、地域文化を熱く語る方がいらっしゃつたりする方が多い感じがします。さびしくはないですね。
 ただ、ある意味主体的ですが、大きな視野からはまかせきりなのでしょうか。案内板も個人か地域かが建てているようです。

伊達の方は、行政のまちづくりとのかかわりで見直されているようですが、この辺りは個人や地域にまかされている感じですね。
by shingen1948 | 2009-05-09 05:51 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(2)