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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥の細道を探る④~平田館

 地点としては、先の「大舘あたり」だ。今回の視点「奥の細道を探る」という中だけではとらえきれないので、「平田館」については取り出して整理しておくことにする。
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 この舘の東側は、荒澤不動尊の御堂への参道になっているが、舘の観点から見直すと、堀と見ることができる。その坂道を登って、南側から見ると舘のための土塁であることが分かる。その濠跡の坂道が、土塁の右側に細く写る。


 「平野の伝承とくらし」ではこの城の言い伝えについて、以下のように説明している。
 <高石仏供養塔群の説明の中で>
 信夫庄司の佐藤基治が舘の山に大鳥城を構えていたが、平田館には、佐藤一族の平田五郎胤清が居を構えていました。佐藤一族は源義経につかえていて、源頼朝が源義経討伐の時、大鳥城の佐藤一族は、鎌倉軍を迎え撃ったが大敗し、一族は散り散りになり、佐藤基治も死亡した。その大鳥城を攻め落とした時、平田舘は一番先に攻められて焼かれたとのことです。

 <「歩楽里いいざか」の平田舘跡を受けて>
 ~「信達一統誌」の記述から~
 元暦文治(1184年~1189年)のころ、大鳥城主佐藤庄司基治の家臣で、平田五郎胤清が居城していたところです。文治5年(1189年)8月大鳥城が落城するとともに、この城も焼け落ちました。

 ~規模について~
 東北隅の土塁と、その東の濠跡は、この館のもとの姿を残しているし、館の南側畑の直線の堺にも、かすかに館の土塁の跡をみることができる。
 東・南・西を土塁によって囲み、北面は摺上川の旧河跡の急な段丘によって守られたこの館の規模を考えることができる。

 この舘のもとの姿を残しているとされる東北隅の土塁と、その東の濠跡の様子だ。
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 ~周りの様子について~
 東方の堀跡はいまでも枯れ沢になって残っており、そこには荒澤不動尊の御堂があります。また、直ぐ北方には、奥の細道をへだてて高石仏板碑群が立っています。土地内には、多くの庚申搭が建てられています。



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 荒澤不動尊の御堂は、舘の土塁の中にある。


<東側の濠の荒澤不動明王の説明の中で>
 もとは、この沢には湧き水滝のように流れており、子どもの頃、水に入って遊んだと地元の人は話しています。今は、水は流れておらず枯れ沢になっています。



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 「ふくしまの歴史」では、ほぼ同様な説明の他、現況として残る土塁等の規模を説明して、その規模を東西95m、南北105mと記述する。

 なお、この地点は、現在も平野と飯坂の境で、板碑のある高石仏が飯坂地区で、舘のある平田は平野地区である。「歩楽里いいざか」は、飯坂地区から、「平野の伝承とくらし」は平野地区からこの地点をみている。
by shingen1948 | 2009-05-03 05:58 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)