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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥の細道を探る③~板碑にこだわって

 「大舘あたり」で、松尾芭蕉は大型の高石仏の板碑群を見ながら進んで、この辺りの石塔の特色を感じた上で、佐藤氏の板碑を医王寺で見たのではないかと想像してみた。
 松尾芭蕉が別コースを進んだなら、この板碑群との出会いはどうなるのだろうか。

 実際にこの辺りを歩いてみると、この大舘あたりから平野の六角石と結ぶ道を通るのは自然なコースではないようには思うが、それでもその道をたどったとするとということだ。
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 これは、香積寺前にある「石造供養塔群」であり、福島市の指定有形文化財になっている。
 この板碑群の一部と出会うのではないかと思うのだ。

 この香積寺は、道筋からは外れている。
 しかし、この板碑がここにあったのではなく、下白山から移してきているようなのだ。下白山なら、道筋になっていただろうということで、松尾芭蕉の一行が、こちらのコースを選んだとしても、この石碑群と出会ったのではないかと想像は膨らむのだ。
 この辺りの風景の一つとして、芭蕉は、こういった板碑群をイメージしながら医王寺の板碑に対峙したのだと勝手に思う。

 この遺跡の移動について、「平野の伝承とくらし」(2004年1月発行)の冊子が、古山氏の文責のもと次のように説明している。
 この「石造供養塔群」は、元々は平塚字下白山の竹藪の南西角にあったもので、下白山石造供養塔群である。そこは下白山寺跡であるといわれている。
この土地を買収した農家が、石碑を移せと主張した。県では保存したいとの意向を示し、飯坂史跡保存会が、現状のまま保存できないかを地主に掛け合ったがうまくいかなかった。やむなく香積寺に交渉して、昭和35年に、その門前の空き地を借用して覆いをかけて保存しているとのことである。

 この「石造供養塔群」については、次のように説明されている。
 鎌倉時代に死者の追善や生前の逆修供養のため、石の供養塔を建てる習わしがあった。今まで、関東地方や東北地方で発見された板碑は、建立の年号や趣旨など文面が明らかでなかった。ところが、ここの板碑のうち三基は、判読できる石面を保っていて貴重だという。特に、(1253年)2板碑は、市内最古で、地元の石に薬研彫りというほりかたを用いている。

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 この香積寺は、平野の六角石の南側に位置している。今回は散策をスタートする時に立ち寄った。
 その時、この板碑の案内板の説明の板碑と実際の板碑の対応関係に不安があったので、丁度寺に入ろうとする方がいたので訊ねたのだが、その方もよく分からないということだった。
 この板碑については、自分の想像の中で理解している状態のままだ。
 
by shingen1948 | 2009-05-02 05:18 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)