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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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奥の細道を探る②~大舘あたり

 道標まで、真っ直ぐ進むか、河岸段丘の縁を進んで星の宮に向かうかの分岐点かなと思ったのが、舟附という地点だ。この地点までの果樹園の中を進む道は、字切り図と比べてみるとによると、伊佐野村と上飯坂村の境界線上の道のようだ。舟附あたりから河岸段丘沿いに進んだ道があったとすると、それは、上飯坂村の南沿いの小字境という感じだろうか。

 その手前に大舘という地点がある。
 ここは、六角石を結ぶ道を通ったとしても、星の宮に向かって河岸段丘の縁を進んできたとしても必ずこの辺りは通っていると思われる地点だ。
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 ここにはU字に堀られた道が通り、その北側に高石仏の板碑が並んでいるのだが、うっそうとした木々の中に現われるその景色には圧倒される。
 ここを松尾芭蕉が通ったのは確実ではないのだろうかと想像する。
 なお、この道の右側の高台は平田舘だ。


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  「ふくしまの歴史」によると、この板碑の最も古いのは、胎蔵界大日如来を表すアの種子の下に、「南無阿弥陀仏」と彫られた建治3年(1277)の年号が掘られたものだが、現在は風化して確認できないとのことだ。


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 板碑群の写真を見比べていくと、この写真の左手前の小さな板碑がそれにあたると思われる。
  ここからは、土の中から丸い石を加工した石製蔵骨器が見つかったので、墓だったと考えられているという。
 この墓の一つが南側の舘の主人である平田五郎の墓との言い伝えがあると紹介している。ただ、板碑の1277年とこの舘があった文治年間(1185~90)との間に約90年のずれがあることも指摘している。


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 城の視点で考えれば、この旧道は、この平田城の堀であり、この板碑がある高台と、その向かいの高台は土塁ということであろう。

 これを字切り図で確かめると、大舘が平塚村で板碑のある高石仏が上飯坂村ということなので、村堺の道ということになるようだ。


 松尾芭蕉は、あちこちでこういった大型の板碑群を見ながら進んできて、これがこの辺りの石塔の特色であることは感じていたと思われる。
 そして、医王寺で改めて佐藤氏の板碑を見たということになりそうだということが分かる。
by shingen1948 | 2009-05-01 04:57 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)