地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大笹生城跡

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 この標柱を見た時、ここが大笹生城と思って、あたりをぐるりと回ってみた。
 家に戻って、「ふくしまの歴史」を確かめると、標柱があるところが主郭ではないらしいことが記載されている。大笹生城とされるのは、後の山頂らしい。
 頂上を削った東西40m×南北60mの平坦地が主郭で、周りを人工的な急斜面があり、さらに北側が段になった平坦地になっているとある。


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 ここは堀跡でないのかなと思って、写真におさめたところについても説明があった。
 東側は平らな場所になっていますが、南北方向に窪地が見られ、明治時代に造られた地籍図によると、昔は空堀と土塁があった可能性があります。
 
 写真も載っていた。
 ということで、堀跡だと思ったものは間違いなかったということだ。ただ、この平坦な館跡を囲んでいるというイメージは違っていたが、……。


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 この延長線上に高台と低地をたどると、ここでカーブしていそうだなと感じた。ただ、この時はまだ標柱の位置が舘と思っていたので、舘の南側のイメージだった。


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 山側からも写真におさめた。これも同様で、本当は堀跡など、この山を取り囲む防御や大笹生城への虎口を想像すべきだったということのようだ。

 標柱には、この城の概要について書いてあったようだが、あちこち消えていて正確に読めない。


 「山形・宮城・福島の城郭」には、文治年間、根津監物の居館、土塁、空堀が残るとある。
 「ふくしまの歴史」では、この城主について、次のように解説する。
 文治年間(1185-90)、佐藤基治の支配下にある根津監物という人が住んでいたという説もあります。
 「瀬上家普」では、城主の瀬上氏が大笹生塁(館)に移ったのは8代瀬上康秀のときとされるが、それがこの大笹生城だったかどうかは不明です。

 標柱の消えた文字をそれらの情報で補う。多分、すべてこの城のこととして説明していると思う。

 文安5年(1448)瀬上氏6代が居館し、弟と争い自刃、その後8代康秀が明応7年(1498)頃まで居城し、摺沢館へ移ったとの説明概要かな?。
by shingen1948 | 2009-04-25 05:32 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)