芭蕉の足跡をたどりながら「ラジオ福島桜祭り」へ
2009年 04月 20日
先に五十目城について整理したところだったが、先日図書館で、この館の調査報告書を見つけたこともある。また、先に文知摺観音について整理した時、文知摺観音を出た後の芭蕉の進み方が確認できたこともある。
ラジオ福島への道は、福島宿を出た松尾芭蕉が文知摺観音に向かう道筋と重なるはず。
福島宿を出た芭蕉が、奥州街道からどう文知摺観音に進んだかの道筋を探りながら進みたいと思った。
福島宿を出た芭蕉一行は、町はずれ10丁程度過ぎて、五十辺村はずれの松川を渡らないで、右の方に入って7、8丁進んで、岡部の渡しで阿武隈川を越えるというのが道筋の説明だ。
まずは、奥州街道から浜に向かう街道の追分の確認を目指す。
しかし、その前に追分近くの奥州街道の道筋の確認が必要だ。結果的には、ここがその道筋らしいのだが、この確認も時間がかかった。
この日はうまくいかなくて、今週も確かめてようやく追分近く街道筋が見えた。
「松川を渡らないで右の方に入って」という表現のあたりの奥州街道の様子を整理する。
旧電車通りが、奥州街道と重なるのだが、その道がこのバイパスと重なる。
こちら側からきた奥州街道は、
この角を左側にカーブして進む。
この道は、直ぐに松川に突き当たる。当時松川は、もっと手前を流れていたかもしれない。
この道を少し行ったところに、芭蕉時代の浜街道の追分がある。バイパス沿いの八光交通地蔵から西に延びた道とこの奥州街道の交点が、その追分という。
文学に詳しい方々は、奥の細道は歌枕の旅なのだから、自然に文知摺観音を目指したという。
しかし、散歩をしてみると、奥州街道のこの道は、松川越えに多少の抵抗感があったろうことが想像できる。それもあって、右折するという心境も考える。
その松川が目の前に現れ、その川の河岸段丘に沿った浜街道がある。その浜街道の道を進むと、歌枕の文知摺観音があるということではなかったのかと勝手に思う。その決心で進んだ後、阿武隈川を渡る岡部の渡しに出会うということだったのではないだろうか。
福島市も松川周辺はきっと農村で信夫山から続く雑木林なんてのが目に浮かびます。
阿武隈川の堤防もなくて、今よりも水量も多かったと思いますし、何より水が綺麗だったと思います。
文明と引き換えに失った古き時代、なんか大切なものを失くしてしまったような気がしてなりません。
多分、阿武隈川を渡ったあたりりは、今でこそ東根堰の恵を受けて豊かな水環境になっていますが、当時はそれがないので、この阿武隈川の洪水も自然の恵みとして川との共存意識が働いていたのだろうと思っています。
便利になって失ったものの中で、共存感覚は大きいような気がしますね。