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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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名倉城④

 この城の変遷にかかわって、「城の宿的機能を有する集落的様相」という見方について整理しておく。
 昨日整理した米沢街道が、この舘あたりでは、舘の中を走り、この道路を中心に両側に建物跡あるいは屋敷地が展開する状況があって、その集落全体を堀で囲っていたのではないかとの推定のようだ。

 その根拠の一つになっているのが、この城の規模らしい。
 普通の居館と想定すると、ここの規模は、一国守護所か守護大名のクラス居館と同じになってしまうらしい。信夫庄では、守護大名クラスの国人領主は伊達氏以外考えられないし、通常の村落領主の規模としては大きすぎるということのようだ。
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 そこで登場するのが、先の見方ということになるらしい。
 その道筋は、舘の中央を走っていたとするが、それは地籍図をもとにしているようだ。
 地籍図は明治期の地割だが、中世の遺跡の状況をある程度反映していることがあるらしい。具体例として、福島の前畑遺跡・郡山の猫田遺跡・山形県の鶴岡市塔を挙げている。また、この名倉城では、北側の堀跡ラインが地籍図に対応していることを挙げている。


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 勝手に、その道の名残がこの薬師堂の右側の道路が重なると思う。

 この脇道は、現在は人家に入って行き止まりになってしまうようだが、地籍図のラインでは、畑を通って舘の北東でつながるっている。素直に想像を膨らませ、頭の中で道を走らせる。


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  ここは館の南西隅を走る堀跡の続きだが、この薬師堂はこのやや東寄りのところに位置する。写真の民家の次に、奥の民家に繋がる道があり、それを挟んで島集会所、観音堂と並んでいる。
 通称「大悲堂」と呼ばれているとのことで、ここに佐野薬師が祀られていて、集落内の宗教的施設の名残とも想定している。


 この宿的機能のその後だが、出土した瀬戸の遺物期である16世紀には廃絶か、遺跡南方の「宿」地名の残る地域への移動してしまうと想定しているようだ。
 また、この土塁等の施設に部分的な改修が加えられているのは、元の施設とは時間的経過か別の技術の参入があった可能性もあるとして、伊達氏のかかわりも想定の可能性としては否定せずに残しているようだ。
by shingen1948 | 2009-04-11 05:24 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)