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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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田地ケ岡遺跡

 先にここを訪ねた時に、縄文遺跡としての視点ではみていなかった。
 改めて案内板で確認をすると、縄文遺跡として以下のように説明している。

 田地ケ岡遺跡
 城館と重複して縄文時代中期後葉(約4000年前頃)の 集落跡が確認されいてます。昭和46年に東北自動車道建設の際に発掘調査が実施され、複式炉を伴う竪穴住居跡23軒小竪穴遺構13基、野外埋設土器7基などが発見されました。調査結果から住居を台地周辺に配し、台地中央部は広場的空間として利用したことが伺われ、当時の集落遺構を知る上で重要な遺構とされています。
このように、当遺構は大変貴重な埋葬文化財であるとともに、特に資料の少ない中世二本松を語る上で欠かすことのできない館跡として、後世に残さねばならない歴史的遺産です。
 平成13年3月
 二本松市教育委員会


 舘跡の説明で、「平坦地の北下2~4㍍の高さで帯郭」とした所が、住居が並んでいたのだろう。
田地ケ岡遺跡_a0087378_4455041.jpg
 これは、学校の裏から西に広がる平場を北西方向に見ているが、「台地中央部は広場的空間として利用したことが伺われ」としている所だ。

 全体構成としては、先に訪ねた塩沢上原A遺跡と同じような集落を想定していると考えられる。
http://kazenoshin.exblog.jp/6893002

 塩沢上原A遺跡は、遺跡の中央部を道路が走るため、この中央部の様子が調査されている。塩沢上原A遺跡の案内板では、そのことを次のように説明している。
 平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われた。
 袋状土壙7基、土器棺墓2基などが検出されました。土器棺墓 からはヒスイ製の垂玉が出土し、ほかに人面付き土器、船型土製品の出土が注目される。

 この塩沢上原A遺跡は、標高約273㍍の台地上のこの一帯は、現在でも沢山の土器片や石器が散布する縄文時代の大規模な遺跡だが、結論は田地ケ岡遺跡と同じ。
 このことから、この遺跡は竪穴住居跡を台地の縁片部に配置し、中央部は、墓城あるいは祭祀域として区画した、環状の集落配置であることが確認できました。さらに、複式路は2個の土器を用いた規模の大きなもので、複式炉が最も発達した時期の形態で在ることが分かった。


 この塩沢上原A遺跡と田地ケ岡遺跡の違いは、調査の度合いだろうか。
 塩沢上原A遺跡は、昭和46年に東北自動車道車道建設に伴って台地の西端を調査。
 昭和59年には、県立博物館によってる学術調査で台地の南端部を調査。
 そして、平成7年に県道拡幅工事に伴って台地中央部の調査が行われた。

 この田地ケ岡遺跡では、昭和46年の東北自動車道建設に伴う調査のみのようだ。案内板にはないが、校舎建設に伴う調査も多分あったはずだとは思う。
田地ケ岡遺跡_a0087378_583075.jpg
 逆に考えれば、中央部はほとんど手つかずの状態で縄文遺跡が残っているということだ。
 住居跡があったという台地西端の現況墓地から中央部のベールに包まれた広場を見る。


田地ケ岡遺跡_a0087378_5102730.jpg
 台地西端には、調査で複式炉を伴う竪穴住居跡23軒小竪穴遺構13基、野外埋設土器7基が確認されている。
 塩沢上原A遺跡の同じような状況の場所から発見された竪穴住居20軒 、袋状土壙6基、円筒状土壙4基の成果と比べてそん色のない集落が想像できる。
 台地西端から南側が遠望でき、古代の人々が遠望したであろう景色が想像できるような気分になる。
by shingen1948 | 2009-04-02 05:23 | ◎ 埋蔵文化(古墳・それ以前) | Comments(0)