田地ケ岡舘跡
2009年 04月 01日
歴史的な背景など確認しながら整理したが、散策としては全体を捕らえていなかったような気がする。
案内板に、「田地ケ岡遺跡・田地ケ岡舘跡」とあるのは、ここが、中世の館跡としての意義と縄文遺跡としての意義があるためだ。
まずは、中世の館跡として散策を整理する。
この一帯は、14世紀中頃(南北朝時代)に、奥州管領畠山高国が下向した際に構えた館跡と伝えられている。正平元年(1346年)に居を構えたとしている。
畠山氏は、その後、嘉吉年間(1441~1443)に4代満泰が白籏ケ峰(現在の二本松城本丸跡)に居館を移したと伝えられる。
観応の擾乱以降不穏になっている情勢にあわせ、城の南方1.5キロほどの「白旗が峰」に築城したという。
分かりやすい遺構は、南北に走る堀切だ。
案内板では、この堀切を「小学校と畑の 堀切は深さ2~ 5㍍で南北に100㍍残っていて、城館の中心は小学校敷地と推察されています。」としている。
このことは、以下の前回の整理でもふれている。
田地ケ岡館について2007.5.23
田地が岡舘跡を訪ねる 4.13
今回は、この堀切を確認した後、周りの様子も確かめてみることにした。
岡の上の南側の道路を東に進とこの高台を降りて行くことになる。
そこから北側に回り、北東の角から見てみる。
虎口とも思える登り口と、この丘の北側の道が見える。
この丘の周りを回って、全体的な把握を試みる。
北側から眺めると、案内板にある2~4㍍の高さで帯郭があるというあたりが、見える。学校の校舎の裏側にあたる。
平場をこの角の上から眺めたものと比べると、やや下った所に道が走り、この平場の広がりが分かる。これが案内板に言う帯郭の部分だろうかと思う。
これは、北側の道中央あたりから、東側を眺めているところだが、北側には油井川が流れていて、その南岸に舌状台地が広がっていることが分かる。
案内板に言う「油井川南岸の舌状台地上のこの一帯」ということを実感する。
一応平城ということになっているが、高台に据えた館跡ではある。北側や西側の防備は結構堅いのではないかと思える。
小学校の前の案内板にある「殿地が岡は平城であるが、周囲の平地から20メートルほどの微高地に築かれており、館的な要素が色濃い城である」という説明に納得する。
案内板では、田地ケ岡舘跡の部分は、以下のように案内する。
田地ケ岡舘跡
油井川南岸の舌状台地上のこの一帯は、14世紀中頃(南北朝時代)、奥州管領畠山高国が下向した際に構えた館跡と伝えられています。
遺構としては、平坦地の北下2~4㍍の高さで帯郭があり、南部には高さ1~2㍍の土塁が残っています。
また、小学校と畑の 堀切は深さ2~ 5㍍で南北に100㍍残っていて、城館の中心は 小学校敷地と推察されています。西端部は東北自動車道に切断されましたが ここにも深い堀切が 残されています。
其の後、嘉吉年間(1441~1443)に4代満泰が白籏ケ峰(現在の二本松城本丸跡)に居館を移したと伝えられています。
平成13年3月
二本松市教育委員会
二本松市のホームページの年表から、この館に関わる部分を再度転記する。
1189(文治 5) 安達盛長が安達保の総地頭職に任ぜられる
1218(建保 6) 安達保が安達荘となる。(総地頭職は安達景盛)
1346(貞和 2) 吉良貞家・畠山国氏が奥州管領に補任される。畠山氏は塩沢の田地ケ岡に、 吉良は上長折の塩松に居を構える。
1351(観応 2) 畠山高国・国氏父子が吉良貞家に攻められ岩切城で自害する。
1413(応永20) 畠山国詮が奥州探題に補任される。
1441(嘉吉 1) この頃、畠山満泰が白旗ヶ峯に城を築き、二本松城と号す。
二本松市内は起伏が激しく城郭には良いのでしょうが、田畑のある地域を支配するには田地ヶ岡の方が立地的にはベストなのだろうと思います。
森の恵みもあり、平時はここが住みやすかったろうと想像できますね。
それが、縄文集落へとつながっていくんだろうと想像しています。