大名倉山③
2009年 03月 30日
大名倉山に関わって、大玉村ホームページでは、相生集の鶴塚の言い伝えを紹介している。
相生集に鶴塚の言い伝えがある。元禄年中、山田金太郎(月岡某)というものが君命によって、名倉山で鶴を撃ったところ、その足に金の札があった。その札は、頼の字を残していたが、他は摩滅して見えなかった。その鶴を埋めたところに塚を建て(名倉山の中腹)一株の杉を目標にしたという。源頼朝公が鶴を放ったことは口伝えにあったが定かでない。今から数十年前まで杉やかや榧の大木が存在した。しかし、雷火に遭い、二昼夜にわたって火は消えず、ついに焼失して今日に至った。その傍らに山王を祀り、日吉神社と称し、今なお小姓内集落で祭礼を執行している。
山王信仰に触れている。
この信仰の起源は、比叡山(日枝山)一帯に古くからあった山岳信仰で、人々の生活に溶け込んでいた信仰のようだ。
祭神は大山咋神後に大物主が加わる。(大山咋神は、素戔嗚尊の孫)
平安の時代に、最澄が比叡山に延暦寺を建立するが、古くから信仰されていたその地の神々を鎮護神・護法神として尊重し、山王と呼んだという。
この時から古来の土着の神と天台宗の習合が始まると聞く。
そして、鎌倉の時代には、天台宗と日吉の神の信仰が結合して「山王神道」が確立されて隆盛したらしい。
今の生活からこの感覚が抜けているのは、明治政府の宗教政策のようだ。
延暦寺と日吉大社の神を分離し、山王権現の社号を禁じる政策が完成して、私たちからこの感覚が消える。
整理しておきたかったのは、この大名倉山には、「おらが村の神」を祀っていたらしいということの意義もあるということだ。
里に近い山だから羽山信仰もあったと思う。この山に祀られていた右奈己呂和気彦霊神は、祖霊神の役割も担っていたのではないかと想像する。
大名倉山に生活と精神的に繋がる神々が住み、それが安達太良山の神々とも繋がり、その奥の吾妻山の神々と繋がっている。
そして、昔は、修験の峰入などを見聞きしているのだから、そのことについてもっと実感に裏打ちされていたと思うのだ。
ずっと気になっていたのは、生活と密着する神々が名倉山の中腹ということだった。しかし、山頂には安達太良山の遙拝殿の機能があることが分かって合点がいった。
なお、本宮の安達太良神社では、飯豊和気神を祀っているとも聞く。もっと奥の会津の山々の神をも感じていたかもしれないとも思う。
うちの菩提寺である相応寺(大玉村玉井)は、昔(江戸以前らしい)は安達太良の前ヶ岳にあったのですが、火災によって現在の皿久保あたりに建て直し、それも火災で焼失したので現在の玉井に移ったということです。
住職の話によれば今から500年以上前から続くお寺で、昔は地域の中心的な仏教信仰(信儀真言宗)の祖であったそうです。
遠藤ヶ滝はこの寺の修験場で今も滝の入口には相応寺の修験寺があります。
また、この寺は会津地方の同宗派とも深いつながりがあるそうです。
散策していてそう思います。
いつか合理性優先の思想から、習合が排除されて神々が私たちの心から去っていったということのようです。
言いすぎかもしれませんが、明治の改革の負の遺産だと思っています。