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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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信達大一揆

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 日枝神社に結集した寛延2年(1749)の信達大一揆物語は、明治40年半井桃水によって朝日新聞に連載され、映画化もされて有名とのことだ。
 この神社の案内版では、相手は桑折の悪代官神山三郎とされているが、一人の判断で行っているはずもない。


 当時の幕府勘定奉行は神尾春央で、「胡麻の油と百姓は搾れば搾るほど出るものなり」と言ったといわれている方だ。神山三郎左衛門は、その神尾に目をかけらて、寛延2年6月に信達地方へ代官として赴任する。
 着任早々、神山は検見を行なう。その検見は、実際の収穫高を無視し、開墾された無税地や技術の向上で収穫高が上昇した土地すべてを洗い出す課税法だったという。
 要は定見法を検見法に変えたということへの不満らしいが、多分、客観的に見た時には、どちらが良いということの判断は難しいものと聞く。
 従来、信達地方は養蚕地帯で、年貢納入期限は養蚕収入がある翌年の6~7月までに3回に分けて納入すれば皆済とみなすという納入法だったのを、年内にすべて皆済せよと改めたともいう。
 これも幕府の策の忠実な実行だ。

 彼にはもう一つ使命があった。
 半田銀山は、慶長3年(1598年)米沢藩上杉景勝氏の代から本格採鉱が始まり、隆盛を極めたが、これに目をつけた徳川幕府は、延享4年(1747年)には直轄領とし、佐渡奉行の支配下に置いている。
 これも彼の与えられた仕事で、銀山は幕府直営の御直山と同組織で経営され、産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えるに至ったという。

 有能なエリート代官が、幕府のために与えられた仕事を懸命にこなしたということのようだ。 

 この一揆、仙台藩白石から片倉家の手勢700人ほどが駆け付けて、堤三右衛門を交渉役に据えてようやく騒動はおさまったという。
 義民の話としては、一揆の指導者たちが獄門・斬り捨て・追放となったことが強調されるが、この一揆の意義は、当年の年貢減免と金納分の4回分納が認められたという成果にあるらしい。
 それが各地の一揆の見本となると共に、幕府に年貢増徴策の限界を知らしめたということのようだ。
 藩政改革の評価基準の一つの考察資料のようだ。
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-19 09:17 x
天領が福島にあるのは金山・銀山があったからなのですネ。
高玉金山は大玉村の高松近くまで鉱脈があったようで、キノコ採りに行くと古い露天掘りの後があちこちにあります。
Commented by shingen1948 at 2009-03-19 21:24
 近代には高玉金山のような掘り方になるようですね。コウモリの生態等に着目していますが、露天掘りは、江戸時代の遺構であり、是非見たいと思っていますがなかなかチャンスがありません。
 三森辺りの水晶も玉としての価値があるはずですよね。
 そう思いつつ、散策が間に合いません。
by shingen1948 | 2009-03-19 03:48 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(2)