宮代館土塁
2009年 03月 16日
摺上川の土手から順に確かめながら南に向かってみることにする。
すると、遊園地の滑り台らしきものがちらっと見えて、行ってみる。
そこは、間違いなく「北側約に100m程、東北線にそって約40m程土塁が見える」といわれている北側の土塁らしい。
案内板が建つ。
宮代館土塁の由来
鎌田村(現福島市鎌田)船戸の志田正徳が書いた「信達一統志」(天保12年・1841)では、宮代館は康平年中(1058~1065年)に源頼義が築いたと伝えられており、源頼義が前線基地として、三夜のうちに築いたため「三夜の城」とも言われています。
また、多賀城以前の陸奥国府がこの地にあったとも言われています。
館の規模は、明治時代に刊行された「信達二郡村誌」では、東西120間(約219m)、南北110間(約200m)と伝えられていますが、現在は、東北本線に沿って約40m程の二重の土塁とその北側に東西方向に約100m程の土塁の一部が残っており、当時の面影をしのばせています。
「三夜の城」について、「信達二郡誌」では、その敵を「陸奥国の豪族安倍頼時・貞任父子を攻めた際」としている。
また、伝承に過ぎないが、「義経記」では、金売り吉次の説話に「はやしろ」として載っているともいう。
居住者は館内に残る供養塔などから、弘安年間(1278-87)には左衛門尉源朝定なる人物が居住したといわれているとするものもあるらしい。