地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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六角地蔵あたり

  「山形・宮城・福島の城郭」では、宮代山王は、古称山王七所明神といい、創建の時期は不明だが、宮代の地名はこの神社に由来すると考えられているとする。
 そして、宮代舘跡の西側に日枝神社(宮代山王)があるとしている。ということは、館跡は日枝神社(宮代山王)の東側にあるということになる。
 また、舘跡の遺構について、「信達二郡誌」に、規模は東西120間・南北110間であり、大部分は、宅地・果樹園・畑地になっていて、南側に一部遺構が残っていると紹介する。

 しかし、「ふくしまの歴史」では、宮代館は日枝神社(宮代山王)の北側で、東北本線の東側とする。そして、舘跡の遺構については、大きさについては、「山形・宮城・福島の城郭」と同じだが、南側の土塁を壊し、堀を埋めて畑にしたと伝えられるとしている。

 想定している位置が少し違っているように思う。東側は住宅地になっていて確かめにくい。
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 その東隣には泉性院という寺がある。寺は新しいようだが覗いてみる。
 このあたり六角地蔵があったとも聞く。

 正面の銀杏には、「松川合戦」を説明し、その時、政宗がここに馬をつないだと説明する。馬をつないだかどうかは別にして、ここ宮代あたりは、重要なポイントの一つであったことは確かだと思う。


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 巳待供養塔の案内が建つ。(手前左側)
文化6年(1809)の巳年に建立とは、「巳需」からの推測だろうか。
 「巳」はしあわせを意味し、「需」は待つの意味として、将来の幸せへの願と説く。文化6年の巳年は巳六で、弥勒菩薩に通じて、幕末の世直し運動と結びつくと説明する。
 右いい坂、左大ざ生の道しるべも兼ねていたということだ。ここがその地点なのか、近くの街道から移動されたものなのかは分からないが、そのままのような気もする。

 その右脇に「念仏供養塔」があるが、寛延の一揆と結びつけて案内する。
 獄門となった一揆のリーダーの墓石にも制限があって、三尺以上の墓標を許されなかったと説明し、人々は寛延3年にこの山王山泉性院に「念仏供養塔」を建立して、その成仏を祈ったとする。
 代官神山はその翌年江戸屋敷で、彦内の生首に毎晩悩まされ、狂死したと伝えられるとするのは、そうあってほしいと思う人々の願いを表現したのだろうか。
by shingen1948 | 2009-03-14 08:39 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)