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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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農民一揆発祥の地で、その決意の拠り所を想う

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 ここ日枝神社に農民一揆発祥の地の標柱が建っている。


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 「農民一揆発祥の地と義民中村治右衛門」の碑から、地域の方の元々の意識は、「さんのん」さまであることが分かる。
  「山王権現のお告げであることを宣言し一揆を起こす」からだ。
 山王権現様を整理しておく。

 山王信仰の起源は、比叡山一帯に古くからあった山岳信仰で、祭神は、荒ぶる神である素盞鳴尊の孫とのことだ。
 平安時代、最澄は延暦寺を建立するが、一帯の古くからの神々を寺の鎮護神として尊重し「山王」と呼ぶ。 古来の土着の神と天台宗の習合。やがて、仏教風に山王権現とよばれるようになる。
 延暦寺系の寺院を展開する時、山王神も併せて勧請したり神霊が分霊されて、全国に広まる。
 鎌倉時代に、天台宗と日吉の神を結合した山王神道が確立する。山王神が釈迦の垂迹とされ、さらに、伊勢神道とも習合し、天照大神とも結合する。

 イメージ的に、荒ぶる神の孫だから、恐れられる一方、泣いたり、怒ったり、恋したりと、非常に人間くさい神様だったろうと思われる。
 それで、疫病や諸々の災厄をもたらす神であり、人々から畏怖の念をもって恐れられる一方で、それらの災いを取り除くための重要な信仰の対象でもあったろうと思われる。
 村落共同体が、生産と生活を維持するために外敵から自衛しなければならない中世では、村の結束のシンボルとして存在感があったと想像される。
 明治維の新政府の神仏分離政策でにおいて、寺と大社を分離し、山王権現の社号も禁止して抹殺した。
  民衆の生活に密着した神は、ありがたい神仏の集合体みたいなものなのだが、政治的理由で歴史から抹殺されている。現在では、元々の日本人の漠然とした神々対する畏敬の気持ちは想像しにくくなっている。発言することは少ないが、このことを真に憂いている地域の散策人は多い。

農民一揆発祥の地と義民中村治右衛門
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 江戸時代のなかば寛延2年(1749)天候不順により大凶作になったのにもかかわらず信達を支配する幕領桑折の悪代官神山三郎左衛門は過重な年貢の増税を言いわたした。農民は困窮を極めたので、有名な天狗回状を回覧し、信達68ケ村100余人の百姓代が宮代山王社に参集した。
 伊達長岡の齋藤彦内が先導し、山王権現のお告げであることを宣言し一揆を起こして減免を強訴することを協議一決した。日本で最大規模の百姓一揆と言われている。
 伊達長岡の齋藤彦内、鎌田の猪俣源七、伊達崎の蓬田半左衛門、宮代の中村治右衛門らを先頭に総勢17000人の農民が総決起し、桑折代官所へ押し寄せ強訴し年貢増税を中止させた。
 その後代官所側の吟味は厳しく彦内、源七、半左衛門は死罪として処刑、治右衛門は追放となった。犠牲となって多くの農民を救ったので死罪となった3人は義民として広く世に顕彰されたが我が地の中村治右衛門も主導者の一人であったのでその功績をたたえて顕彰し後世に伝えるものである。

 顕彰碑発起人会


by shingen1948 | 2009-03-13 19:23 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)