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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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寛延農民一揆~寛延三義民猪俣源七

 宮代館を訪ねるのに、そのポイントとして、日枝神社をめざした。
 この日枝神社自体雰囲気のある神社で、興味引かれるものがあった。
 その中の一つに、寛延一揆の集合場所と標柱がある。
 寛延2年、(1749) 「天狗廻状騒動」と称されるこの一揆は、この地区では有名らしい。
 先日、鎌田館跡に出かけ「鎌田城」 として整理した。
 その時、この一揆とかかわった猪俣源七の墓があったが、そのままだった。
 まず、そのことを整理しておく。


a0087378_48420.jpg
 鎌秀院の門の所に、寺の由緒と共に、この一揆の概要と一揆の発頭人の一人である鎌田村の猪俣源七を顕彰する案内板が建っていた。
 日枝神社では、桑折代官神山三郎左衛門を悪代官と称しているのが印象的だが、内容的には変わらず、平易にこの一揆を案内する。
 そして、墓地の南西の土塁に、一族の方々とともに眠る猪俣源七の墓を案内する。



寛延三義民猪俣源七の墓
a0087378_4112253.jpg 今から250年の昔、寛延2年東北地方を襲った冷害のため、田方立毛青立と記録された大凶作となり、農民は餓死寸前の有様となった。
 福島藩を始め諸藩は、減免或いは施米を行っているのに対し、幕領68ケ村を支配する桑折代官神山三郎左衛門は、逆に2割5分の増米を下達する暴状に、遂に農民は立ち上がり16800余人を叫合する一大百姓一揆となり、後世「天狗廻状騒動」と称され、未だに郷土に語り伝えられている。
 この一揆の発頭人となり「わらだ廻状」を各村に廻した人は、長倉村の百姓総代齋藤彦内、伊達崎村の蓬田半左衛門、鎌田村の猪俣源七の3人であったが、騒動終了後共に伊達産ケ沢の刑場にて斬首、さらし首に処せられた。時将に猪俣源七33歳、妻、子一人であった。寛延3年鎌秀院墓地に埋葬建碑、戒名は頓応了悟信士と称する。
 ここに猪俣源七を顕彰し後世に伝える。
平成12年
現董記

Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-13 11:55 x
伊達市・伊達郡は歴史的に見ると防御の要所だったようです。
それは奥州藤原氏の時代に作られた阿津賀志山防塁でもわかります。
そのため、この辺りは天領であったと聞きます。
譜代大名と外様大名の境界、新政府に変わってからは伊達郡役所が設置され今も建物が残っています。
しかし、時代は大きく変わり寂びれた県境の地になってしまっています。
Commented by 「大」@安達太良山麓 at 2009-03-13 11:59 x
ちょっと余談です。
二本松藩の主は丹羽なのはご存知と思います。
この地では豆まきで「鬼は外!」とは言いません。
「お丹羽そと!」、殿様は外!ってことになるので、「福は内!」だけ唱えて豆まきをします。
スミマセン、関係ない話で・・・
Commented by shingen1948 at 2009-03-13 20:26
 阿津賀志山防塁も発掘調査が始まって、大木戸が明らかになるような感じですね。歩いてみると、白河は形式的には東北の玄関ですが、ここが本当の意味で東北の入口かもしれないと思ってしまいますね。
by shingen1948 | 2009-03-12 04:30 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(3)