地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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文知摺観音

 「ふくしまの歴史」によると、奥の細道の松尾芭蕉は、五十沢から岡部渡りを舟で阿武隈川を越えて、山口の文字(毛地)摺石・観音堂などをめぐり、そののち鎌田・瀬上を通って医王寺・大鳥城など飯坂方面に向かったという。

 その五十辺の道は、奥州街道の旧道と新道が別れる辺りから五十沢の館跡の北側を通って、東にそのまま延びていたらしい。そこに岡部渡りがあって、阿武隈川を越えていったということだ。文知摺観音前にある道標は、元はこの追分けにあったという。
 松川の氾濫原も、当時はもっと南側にあって、茶屋下あたりから現在競技場あたりまでだったらしい。
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 文知摺観音堂へ行ってみることにする。ここへ立ち寄るのは久しぶりだ。


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 パンフレットでは、次のように文知摺石について「もちずり絹」とのかかわりと、鏡石として虎女伝説にかかわっての説明を合わせて解説する。そして、その「しのぶずり」を松尾芭蕉が訪ねてきたことにふれて説明する。


  かつてこの地は、綾形石(あやがたいし)の自然の石紋と綾形、そしてしのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の「もちずり絹」の産地でした。その名残りをいまに伝える文知摺石は、都からの按察使(巡察官)源融と山口長者の娘虎女の悲恋物語を生み、小倉百人一首にも詠まれました。
 後世、この地を訪れた松尾芭蕉も奥の細道の中で、この文知摺石を前に一句したためています。



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  この文知摺石が現在のように露呈しているのは明治18年(1885)に、郡長柴山が、鎌田、瀬ノ上、岡山などの農民を使役して掘らせたからだ。
 そのため、芭蕉の碑は丘の上に残されてしまったという。
 その句碑と郡長柴山の仕事を称える碑が正面にみえる。


  芭蕉句碑は寛政6年(1794)京都の俳人丈左房らによって建立とのこと。
  「早苗とる手もとや昔しのぶずり」


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 元々は南向きだった観音堂は、この時に西向きにせざるを得なくなったともいう。


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 ここには、この他に県重要文化財「東北唯一の多宝塔遺構」などがある。
by shingen1948 | 2009-03-05 04:53 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)