地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊達氏の歴史を杉目城から見つめる晴宗氏夫人

 晴宗が、夫人と末っ子の直宗を伴って杉妻城に隠退したことを整理したところだが、「ふくしまの歴史」では、その晴宗の夫人栽松院の悲運な一生を「悲しみの一生杉妻御前」として紹介している。
 ここでは、今まで整理してきた歴史的な事柄を、杉目城で晴宗の夫人が見つめる視点で整理されている。歴史的にかっこいい出来事も、家で待つ家族にとっては、悲運な出来事でしかないという観点が面白い。
 以下のような視点と概略だ。
 夫人の俗名は、久保姫、岩城重隆の娘で、晴宗とは略奪婚らしい。
 政宗の父である輝宗の母でもある。
 晴宗の杉目城への隠遁は、そのこと自体、夫人にとっても悲運である。

 天正5年(1577)、伊達氏の代官として国分氏に入った栽松院の子である政重(盛重)が、家中の堀江氏と合わず、天正15年(1587)に堀江氏が反乱を起こす。政重を厳しく叱る政宗に、庭坂まで出向いて詫びを入れるが聞き入れられなかった。
 ※ 政宗にとって、栽松院は祖母であり、政重は叔父である。
 天正12年(1584) 晴宗の隠居に杉妻城に連れてきた末っ子の直宗は、若死にする。
 天正13年(1585) 栽松院にとっては我が子である輝宗が、二本松畠山氏とのかかわりで死んだ。その遺体が佐原の壽徳寺で火葬されるのを杉目城から見やっていた。
 天正17年(1589)須賀川の二階堂氏を攻め、女城主の大乗院を捕えて杉目城に送られてくる。大乗院は栽松院の娘であり、政宗にとってはおばである。
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 天正19年(1591)政宗が、米沢から岩出山に移され、信夫の里は蒲生領となる。このことは、栽松院にとっては、晴宗・直宗の墓所をあとに残すことである。根白石に移った栽松院は、その3年後にそこで亡くなる。
by shingen1948 | 2009-02-28 05:15 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)