地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

伊達晴宗の墓~宝積寺

a0087378_1950094.jpg
  福島城を散策したときに、宝積寺の伊達晴宗の墓については、整理していなかった。なぜか躊躇するものがあった。

宝積寺の
おおよその位置
Mapion

 天地人の時代からは、1~2世代前の時代だ。
 伊達家と上杉家との関わりという点では、信夫の里は伊達家の旧地であるということだ。

 伊達晴宗(永正16年(1519)~天正5年(1577))は、伊達政宗にとっては、祖父の時代の話になるのだろうか。西山城で整理した伊達稙宗の嫡男であり、天文の乱ではこの伊達稙宗に対峙した方だ。

 弟である実元が上杉家に入嗣問題に反発して、父である稙宗を幽閉する。
 そして、この乱は全奥州を巻き込む大乱に発展するのだが、晴宗は、地頭領主層を味方につけて勝利し、伊達家当主の座について米沢に居城を移す。
 晴宗について今まで整理してきたのは勝者としての華々しいここまでだ。

 しかし、「ふくしまの歴史」によると、その後、家督を嗣いだ晴宗は、その勢いを失っていくようだ。
 基本的には、父稙宗の政策路線を踏襲せざるを得なくなったようだ。
 稙宗と同様に、多くの子女を奥州諸家に入嗣・入嫁させ、勢力の拡大を図ったようだ。
 また、家中の知行改めを行って権力の掌握に勤めたが、この乱の立役者中野宗時父子の専横を抑えきれず、子輝宗との対立を深めている。

 不本意ながら、その対立を避けるために、杉目城に隠居する。
 輝宗に家督を譲り、米沢の新川に隠居しようとしたのだが、命令が軽んじられたため断念したのだ。
 中野宗時の不穏な動きもあって、夫人と末っ子の直宗を伴って杉目城に隠退したということのようだ。
 ここに来てからは、親子関係の回復があったようだが、影を感じる。
 天正5年(1577)12月5日に没したとのことだ。

※ 輝宗は、伊達政宗の父にあたる。その塚については、佐原の「慈徳寺に立ち寄る」として整理した。
※ 稙宗については、陽林寺の散策でその墓に触れて整理した。大森城を譲って隠居の城とした松川城を散策したときに、実元氏については整理した。
by shingen1948 | 2009-02-26 20:02 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)