地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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鎌田城

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 「ふくしまの歴史」によると、弘長二年(1262)大和国の宇野信治が鎌田荘に封が移って、鎌田と称したという。そして、ここに鎌田館を築いて居城していたとのことだ。

おおよその位置
Mapion
 大きさは、東西210m、南北180mと考えられ、市内でも有数の大きな館だったという。西と東に複数の連郭式の平城と考えられているという。


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  散策時に、寺の南、西、北に続くのが、土塁と感じていたが、その通りのようだ。
 ただ、西側を流れる耳取川が、外堀の役割を担っていたのではないかと想像した所だが、南から東にかけて流れていたものを付け替えたようだ。
 農面道路が堀の位置だったらしい。


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 西側から、土塁をめがけて撮影したのだが、この撮影している道路が、土塁の外側に沿った堀跡だったらしい。底から土塁の頂上までは8mもあったという。
 堀の調査時に、16世紀から17世紀にかけての陶磁器、包丁、鍬、漆の椀が発見されたとある。


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 寺の案内板によると、現在城跡の中央に建てられている鎌秀院は、約730年前、文永年間(1264-75)に宇野信治が創建したという。
 信治の法名(鎌秀院殿源性信大居士)が寺名になっているらしい。
 建治元年(1275)、信治が逝去し、南北朝の戦乱による宇野家の零落によって、ここも寺名が残るだけだった。それを、明徳応永の頃、寺号をそのままに本丸跡と伝えられているこの地に再建されたとのことだ。

 「山形・宮城・福島の城郭」には、伊達氏とのかかわりが詳しい。
 鎌田氏は戦国時代には伊達氏の家臣となり、天文の乱では、嫡流の鎌田四郎兵衛某と出羽国長井庄の庶流の鎌田与総衛門が晴宗について加恩され、名取郡の鎌田助六は稙宗について失脚したとも聞く。
 天正18年(1590)子息は伊達政宗の岩出山城移住に従って鎌田郷を去ったようだ。

 カテゴリーは、「天地人の頃」もかかわるのだが、「伊達政宗」の方にしておく。
by shingen1948 | 2009-02-23 05:00 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)